カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2025年2月16日 「貧乏暇なし」 出エジプト記20章8‐11節

    「貧乏暇なし」という言葉があります。「貧乏になってしまうと、生活の収入を得るために朝から晩まで働いて、仕事以外のことをする余裕がない。」という意味です。私の母も「貧乏暇なし」状態になって一時期教会に行くことができなくなった時期がありました。私はそういう様々なご事情で教会に来ることができない方が今日お読みした安息日規定によって心を痛めはしないかと少し気がかりです。また、私は会社員時代、「平日も休日も貧乏暇なしだ」と思っていた時期がありました。仕事の多忙さだけでなく、教会でもたくさんの奉仕を抱えていたからです。「安息日に全然安息できない!こんなの神様は喜ばれない!」と憤ってさえいました。神様は愛のお方のはずなのに、安息日規定はまるで教会に来られない人を裁くように聞こえるし、安息できない安息日を見過ごされるのはどうしてなのでしょうか。安息日規定をもって神様は何を語りたかったのか、ご一緒に考えていきたいと思います。

    まず、「聖別」と「安息日」の意味を確認しましょう。「安息日」とはユダヤ教では金曜夕方から土曜日にかけて、キリスト教では日曜日を指す言葉です。「聖別」とは「神聖な用に用いるために区別すること」を言うようです。ですから安息日規定を言い換えるならば、「日曜日に思いを留めて、この日を神聖な用に用いるために区別しなさい。」というふうになるでしょう。でもこれだけだと、安息日を礼拝のために取り分ける必要があることはわかっても、日曜日に教会に来ることができない人がどうしたらいいのかは分かりません。続く11節には神様が創造の業を終えた時休息されたことが記されていて、これが安息日規定の根拠のようです。そこで疑問になるのは、神様が休息されたことと、私たちが日曜日を礼拝のために取り分けることの関係性です。創世記は単なる歴史書ではなく、この世界の救済史を描く物語です。そのことを踏まえると、神様が休息されたことが人の救いに深く関わっているようだ…という推測が可能となります。神様はこの世界を創造し、秩序が滞りなく機能していることを確認したのち休息されました。人の救いに休息が大事なものだったからです。私たちは神の国の完成に参与している者で、その働きは尊くて光栄なものです。でも、どんなに尊い光栄な働きでも、私たち人間は限界があって、心身ともに適切な休息を必要としているのです。「救い」とは、神様と私たちとの関係性が回復することをいいます。私たちが週に一度休むことは、私が休んでいる間も神様がこの世界を治めてくださっていることを確認することでもあります。自分が貧乏暇なしにがむしゃらにならなくても、神様がこの世界を愛して管理してくださっていることを覚えて、働きを委ねることは、神様との関係性の回復につながります。この安息日規定は、貧乏暇なしに働き続ける人を責めるためにあるのではなくて、「安心していいよ。あなたの世界は私が守ってるんだよ。大丈夫だから、休みなさい。」そういう神様からの愛のメッセージのように、私には思えてなりません。

    そして、この休息の勧めは、私たちの奉仕についても考えさせます。前述したように安息日規定は、日曜日を礼拝のために取り分けることを勧めているもので、私たちが日曜日にダラダラ過ごすことを勧めているものではありませんから、「安息日に全然安息できない!こんなの神様は喜ばれない!」というかつての私の憤りは、少々的が外れたものであったようです。むしろ神様は、安息日に奉仕をすることで神様のために時間を取り分けたことを喜んでくださったでしょう。けれども、神様は同時に私たちの限界を知ってくださっている方でもあります。もし皆さんの中に、かつての私のように「安息日に全然安息できない!こんなの神様は喜ばれない!」と思っておられる方がおられたら、その方は神様を信頼してないとかそういうことではなく、単にものすごくお疲れなのだと思います。神様が愛をもって私たちに休息を勧めてくださる方なのですから、私たち教会もお互いが疲れたとき休むことを否定したくはありません。適切に休んで、疲れが取れたら戻ってきてほしいし、戻りづらい空気を作りたくもありません。ある旧約聖書学者は、「十戒は偶像崇拝を排除し、搾取から隣人の幸福を守るものだ」と著していました。もし私たちが誰かの「奉仕を休みたい」とか「日曜日だけど教会を休まざるを得ない」といった事情を否定するなら、それは隣人の幸福や人格や尊厳を搾取することに繋がっていくでしょう。多様化された現代社会において「日曜日に休みを取れる人」というのは、ある意味において社会の強者です。けれどもキリストはいつも弱者の側に立たれる方です。私たちも、キリストに倣って、「教会に行きたい。でも行くことができない。」という方に寄り添う者でありたいと願います。私たちそれぞれの事情の中に与えられた安息日があります。その中で私たちが、どうやって神様のために取り分けた時間を過ごすのか、もう一度考えてみたいと思うのです。どうか私たちが、適切な方法で休み、神様を賛美し、祈り、みことばを聞く日として、それぞれのやり方で安息日と特別に取り分けていくことができますように。(篠﨑千穂子)

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