本日からエフェソ書4章に入ります。今回の箇所でまず印象に残ったのは、「一」という言葉がとても多く出てくることです。「霊による一致」にはじまり、「体は一つ」「霊は一つ」「一つの希望」「主は一人」「信仰は一つ」「洗礼は一つ」「神は唯一」など、4章1節から16節までに10回以上も登場します。この「一」は、ギリシャ語で「エイス」という言葉が使われていますが、この単語が「多様なものが一つになる」という意味と、「神は唯一である」という神の独自性を示す意味の両方に使われています。同じ言葉が全く別の意味を持っていることが、不思議だと感じました。本日はこの謎を解いていくことを軸に、エフェソ書4章前半をご一緒に読み進めてまいりましょう。
エフェソ書4章では、多様性と一致について語られています。11節以降では、神がさまざまな賜物を与えておられることが示されています。「使徒」「預言者」「福音宣教者」「牧者」「教師」と、教会の役割を担う多様な賜物が挙げられています。けれども賜物は、こういった目に見える役割だけでなく、様々な形で与えられています。それぞれが神に似せて造られ、異なる賜物を与えられている、貴ばれるべき存在だから、教会は成り立っているのです。そしてそのお互いを尊重し合うことが求められています。
一方で、聖書はこのあとすぐ「キリスト者は成熟せよ」と語ります。それは、私たちが幼いままでいると、「人の悪だくみや、だまし惑わす策略、教えの風」に振り回されてしまう危うさがあるからです。この危険は、教会にも起こりうることです。神様は私たちに「あなたは私に似せて造られた。もっと私に似ることができるのだ」と呼びかけ、私たちに成熟を求め、安全を与えたいと願っておられます。
では成熟とは何でしょうか。エフェソ書は「愛をもって真理を語ること」だと教えています。けれども、「愛をもって真理を語ること」、とても難しいことだと思いませんか?「愛する」ことだけなら難しくないかもしれません。けれども、相手を喜ばせるだけで自己満足に陥りやすく、共依存や「猫かわいがり」になる危険があります。逆に「真理を語る」こともそう難しくないでしょう。正論をぶつけることは気持ちが良いことです。ただそれは簡単に暴力に陥りがちです。神が求めておられるのは、「愛しつつ真理を語ること」です。正直、非常にまどろっこしい作業です。時にイライラすることもあるでしょう。けれども神様は、神に似せて造られた私たちが、それを実現できる存在だと期待してくださっています。だから、私たちは「この人にはどうしたら愛が伝わるだろう」と諦めずに模索していきたいのです。
成熟した結果として、私たちは「謙遜」「柔和」「寛容」な者へと変えられていきます。今の私たちは決して完全にそうなってはいませんが、異なる賜物を持った人々とともに、愛をもって真理を語り合い、ともに神を見上げながら歩む中で、少しずつそうした姿に近づいていくのです。
冒頭で私は、「一」エイスが、「多様なものが一つになる」という意味と、「神は唯一である」という神の独自性の意味合いとに使われているのが不思議だと提言しました。けれども、ここまでエフェソ書を読み進めてみると、「これは、『唯一なる神』によってのみ、多様な私たちが一つにされるということを示しているのだ。」と分かってきたように思います。これは、神を知らない共同体では一切一致ができないという意味ではありません。素晴らしい一致は、どの共同体であっても可能です。けれども、こと教会においては、父・子・聖霊の神を信じ、その神に仕えたいと願うその一点においてでしか、一致はあり得ないのです。
私たちは教会で、時に自分と全く異なる存在、時には「なまはげ」のように異質に思える存在と出会います。そんなとき、イライラしたり、面倒に感じることもあります。けれどもその相手もまた神が教会に与えてくださった尊い存在であり、自分にない賜物を神がその人を通して表してくださるのだと心に留めたいのです。同時に、自分自身もまた他の人から見れば「なまはげ」のように異質に見える存在であることを思い出し、互いに受け入れ合うことを大切にしたいと思います。
唯一なる神に結ばれた私たちは、異質さの中であっても、愛をもって真理を語り合い、神に似る者として成熟していくことができます。神が私たちにそう期待してくださっている恵みに感謝しつつ、これからもともに歩んでまいりましょう。(篠﨑千穂子)