パウロは本日の箇所で、エフェソ教会の人々に「最後に、主にあってその大いなる力によって強くありなさい」と語り、その理由を「戦いがあるからだ」と続けています。世界や身の回りには戦争や不和が溢れていますから、「戦いがあるから強くあれ」と言われたら、「弱肉強食のために強くあれ」と言われているような気がしてきます。けれどもパウロは、「戦う相手は人間ではなく、霊的な悪の力なのだ。」と語るのです。つまり、「腹が立つあの人」とではなく、私たちの間に不和をもたらす霊的な悪の力と戦うことを勧めています。そしてこの言葉もまた、教会の個々人ではなく、教会全体への語りかけであることを覚える必要があります。それでは私たちめぐみ教会が神様との結びつきから引き離されず、互いに不和をもたらす悪の力と戦うには何が必要でしょうか。エフェソ書は13節以下で、戦いに必要な5つの防具と、1つの武器を提示しています。
「真理の帯」は、「揺らぐことのない神様を自分の行動の真ん中に据えなさい」という意味です。「正義の胸当て」は、「『神の義』であるキリストの救いを、自分を守るものとして大事にしなさい」という意味。「平和の福音を告げる履物」は「罪にとらわれていた人が、神と人とも良い関係を築ける世界に生きるようになる神の国を造ることに参与しなさい」ということ。「信仰の盾」は「神ご自身が変わらず私たちを愛してくださる信実さに、身を委ねなさい」ということ。そして「救いの兜」とは「私たちがキリストによって神との関係を回復された事実を、自分の命としていつでも覚えなさい。」ということです。でも私たちは、腹が立つ人が目の前にいるとき、この事実を忘れがちではないでしょうか。私自身もそのような自分に気付かされることがあります。キリストは神の在り方を捨ててまで私を愛してくれたのに、私たちがプライドを捨てられず、目の前にいる人を愛することを選択しないなら…それはなんと残念な戦士の姿でしょうか。
そして最後に、エフェソ書は一つだけ攻撃の道具を教えます。それは「霊の剣、すなわち神の言葉」です。聖霊を通して与えられた神の言葉である聖書に書かれていることは一体何でしょうか。旧約聖書には、人が神を裏切っても神は人に誠実を尽くされたことが書かれています。新約聖書には、やはり神との約束を守れない人間に神様が独り子イエス・キリストを送られて、人にどうしても解決できない罪の問題、神と人との不和の問題を解決してくださったことが記されています。神様がそこまでして望まれたことは、人が最初に造られた姿に立ち返ることでした。「神を愛しなさい。同じように隣人を愛しなさい。」これが神様が人に与えられた究極の言葉です。私たちが「神と、また互いとの関係を引き裂く悪の力」と戦うとき、多くの防具が必要ですが、最大の攻撃の力になるのは、この「神を愛し、隣人を愛する」という言葉を心に刻むこと…エフェソ書はそのように語っているのです。
本日は説教題を「伝説の勇者」といたしました。私が子どもの頃遊んだロールプレイングゲームでは、弱かった主人公が物語の終盤で「実は伝説の勇者だった」と明かされます。そして伝説の勇者には、勇者が身に着けたとたん桁違いの強さを発揮する特別な伝説の武具が与えられるのです。私は本日のエフェソ書の記事を読んだ時、「まるで伝説の勇者みたいだ」と思いました。神様が与えてくれる武具は、この世ではどれも陳腐なものとみなされるかもしれません。けれども、この武具は私たち神の民が身に着けると抜群の力を発揮するのです。またこの武具は、私たちの内にはなくすべて神様が与えてくださるものです。だから、私たちはお互いが伝説の勇者となれるように、祈りあっていくめぐみ教会でありたいと思うのです。「腹が立つあの人を愛せない私を赦してください。私を愛せる者へ変えてください。」そう祈りあいながら、伝説の勇者に共に変えられていきたいと願います。(篠﨑千穂子)