「聖書は神の言葉」という言葉があります。聖書は神が人に愛を伝えるために与えたメッセージです。けれども詩編は少し異なり、人から神への語りかけ――嘆きや感謝、喜びの表現――が中心です。詩編は、神と人との「関係性のことば」であり、神はそれを通して「どう神に語りかければよいか」を教えてくださいます。神は「神と人との関係」を大切にされる方であり、同時に「人と人との関係」も深く重んじられます。
詩編133編にはこうあります。「兄弟が共に住むことは、何という幸せ、何という麗しさ。」ここでいう「兄弟」とは、血縁者に限らず、神に造られたすべての人を指します。「共に住む」とは「同じ食卓に着く」ことを意味し、人々がさまざまな事情を抱えながらも共に食卓を囲む姿を示しています。詩人はそれを「シオンの山々に滴るヘルモンの露」にたとえます。水の乏しいシオンの地を潤す露は神の祝福を象徴していて、人々が一緒に食卓を囲むことは命をもたらす恵みだと語るのです。
けれどもこの詩は同時に、「人々が一緒に食卓に着くことの難しさ」をも語っています。だからこそ詩人は、その幸せが実現したとき、「なんという麗しさ」と歌うのです。
この詩を読むとき、私は映画『バベットの晩餐会』を思い出します。19世紀の小さな村で暮らす牧師の娘である二人の姉妹のもとに、パリの戦火を逃れた女性バベットが家政婦としてやって来ます。貧しく静かな日々のなか、バベットはある日、宝くじで大金を得ます。姉妹は彼女が祖国へ帰ると思いましたが、バベットはその全額を使って村人たちを招いた晩餐会を開きます。実は彼女は、かつてパリで名をはせたシェフでした。招かれた村人たちは、日ごろ不和の絶えない人々でした。初めは緊張していた彼らも、料理を味わううちに表情が和らぎ、心がほどけていきます。誰も感謝の言葉を口にせず、明白な和解も起こりません。しかし、その夜、人々は穏やかな笑顔で家路につきます。晩餐会後、フランスへ帰るのかと問われたバベットは、当選金をすべて使い果たしたと明かし、「でも晩餐会は自分のためだった。力を尽くして人を喜ばせたかった」と語ります。この物語は、「美味しい料理が人を幸せにする」という話ではありません。感謝や理解されずとも人に恵みを注ぐ愛なる神を、バベットを通して語っている物語なのです。詩編133編もまた、「人が共に食卓を囲むのは簡単なことではない。けれども神はそんな人間の良いものを与えようとされる」と語ります。神は、乾いた大地に露を注ぐように、私たちの関係の中に恵みを注いでくださるのです。
本日は召天者記念礼拝です。この場には愛する人を神の御許へ送られた方々もおられます。「共に食卓を囲むこと」は難しいことです。特に近しい人との間では容易ではありません。神の御許へ見送ったあの人を思うとき、心のどこかで、私たちはこんな思いを抱くことはないでしょうか。「本当はあのとき、言い争いではなく『大切に思っている』と伝えたかった。」「本当は“ごめんなさい”と言いたかった」「“ありがとう”を伝える機会を逃してしまった」神はその涙を知り、ひとつ残らずぬぐい取ってくださいます。聖書は約束します。キリストが再び来られるとき、私たちは先に召された人々と再会できると。その時には、悲しみも怒りも消え去り、ただ愛と感謝とやさしさだけが満ちています。その日、私たちはこう歌うでしょう――
「人々が共に食卓に着くことは、なんという幸せ、なんと麗しいことか。荒れ地に水が滴り落ちるような、神の豊かな恵みだ」と。
神の国では、私たちは再びかの人と共に食卓を囲みます。言えなかった「ありがとう」も「ごめんね」も、「愛してる」も、すべて伝えることができます。そこでは関係が再び壊れることはなく、永遠の平和が満ちています。
その日まで、私たちはこの地上で、先に召された方々が愛した神を見上げて歩んでいきましょう。荒れ地にも恵みを注ぐ神――その神が、今も私たちを支え、慰めておられるのです。(篠﨑千穂子)