私は「ご出身は?」と聞かれると、「成田市です」と答えてきました。ところが先日ある友人から、「それは適切ではない」と言われました。成田駅周辺に住み、何代もその地に根を張ってきた人だけが「成田の人」なのだそうです。ニュータウン育ちの私は、地理的にも歴史的にも「成田の人」とは言えないのだとか。生まれたのも育ったのも成田市なのに、そう言ってもらえないのは、少し寂しい気がしました。最近、「モブキャラ」という言葉を耳にしました。物語の中で名前も設定もなく、背景として登場する人たちのことだそうです。成田の主人公は、代々この地に住み街を形づくってきた人たちで、途中から越してきた私は、モブキャラのような存在なのかもしれません。今回の聖書、エズラ記2章を読んでいたとき、この出来事を思い出しました。そこには、エルサレムに帰還した人々の中で、「自分のルーツをたどることができた人たち」と、「それができなかった人たち」が並べられているからです。まるで聖書までもが、人を主人公とモブキャラに分けているようで、なんとなく寂しくなりました。今日お読みしたエズラ記をフランシスコ会訳聖書で読むと、興味深い点に気づきました。血筋がはっきりしている人たちは「〇〇の子ら」と記され、そうでない人たちは「〇〇町の男子」と、住んでいた場所で呼ばれているのです。古代社会では、「子ども」という呼び方には、「あなたはこの共同体の一員だ」という温かい受け入れの意味がありました。一方、血筋が分からないということは、守られる基盤を失うことでもあり、当時の人々にとってはとても不安な状態でした。やはりそこには、深くて広い川が流れているように感じられます。
けれどもこのエズラ記2章に登場する人々の名前の意味を地道に調べてみると、興味深いことが分かります。4節の「シェファトヤ」は「主はさばかれる」という意味で、悔い改めつつ神の前に立つ姿が思い浮かびます。ところが5節の「アラ」は「放浪者」、6節の「パハト・モアブ」は異教の地モアブに関わる名で、誇らしいとは言いにくい背景を感じさせます。7節以降の「エラム」「ビグワイ」「アテル」は外国系の名前で、とりわけエラムはイスラエルの人々から強い警戒を向けられていた民族でした。そして最初に出てくる3節の「パルオシュ」は、「蚤」という意味で、「取るに足りないもの」のたとえとして用いられていた言葉です。こうして見ると、「ルーツをたどることができた人たち」が、いわゆる主人公だったとは、どうも言えません。むしろ、先頭に置かれているのは「蚤」、続くのは放浪者や外国系の名です。これは、「社会から見れば排除されてもおかしくなかった人たちが、『神殿を建て直すために故郷に帰りたい』と手を挙げ、その思いを神様が喜ばれた」ということを示しているのだと思います。社会的には「いなくてもいい存在」と見なされがちな人たちが、神様のために生きようと立ち上がった。そのことを神様は、「聖書に名前を残そう」とされるほど、喜ばれたのです。神様は、モブキャラを主人公の背景として扱う方ではありません。モブキャラそのものを、物語の中心に置かれる方です。エズラ記2章の長い名簿は、英雄譚でも奇跡物語でもありません。そこに並んでいるのは、「蚤」と呼ばれた人、「放浪者」と呼ばれた人、「外国人」と呼ばれた人、そして自分のルーツを証明できなかった人たちです。それでも神様は、その一人ひとりを「わたしの民」と呼び、愛し、聖書に名前を書き記してくださいました。ルーツをたどれなかった人たち、社会の端っこに置かれていた人たち、「誰の子かも分からなかった人たち」の名前が、神様の書物の中に消されずに残っている。それは、「あなたの人生は、わたしの物語の中にある」という、神様からの静かな宣言のように思えます。人は主人公の名前だけを書き残し、歴史は勝者の名だけを書き記します。でも神様は違います。モブキャラのように見える人たちの名前を、一人ひとり書き留められました。だから私たちは、「主人公になろう」としなくていい。「私は価値ある人間だ」と無理に証明しなくていい。ただ、神様の呼びかけに応えて、今日ここに立っていればいいのです。父なる神様は、世の中で「モブキャラ」として扱われがちな人たちを、こよなく愛されるお方です。そして、その愛の対象――その「推し」は、他の誰でもない、今日ここにいる私たち一人ひとりなのです。(篠﨑千穂子)
