カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2026年2月22日講壇交換「主イエスのきょうだいたち」エレミヤ書31章27~34節、ヘブライ人への手紙2章10~18節

    みなさんはご自分の名前を大切にしていますか。なぜ、みなさんに名前がついているかというと、名前がないと呼んでもらえないからです。しかもひとりひとり、その固有の名を持っています。神もまた、ただひとりの神が持っておられる呼び名であって、その名を私たちが呼ばないと神が分かりません。

    ヘブライ人への手紙も「名」を大切にしています。第1章から第2章にかけて、まず用いられていた言葉は「御子」です。第3章を読み進めると「キリスト」という称号が現れ、また「御子」という呼び名も用いられます。きちんと使い分けています。そうなると、なぜここで「イエス」の名が、このように用いられるのか、理解しなければなりません。「イエス」は主に対するもっとも単純な呼び名です。ヘブライ人への手紙は、その福音書が語っている、地上に、私たち人間と同じように生きてくださった人間イエス、人としての名前を持ってくださった方として、まず、ここで御子について語っているのです。

    イエスは私たちと同じ存在になってくださった。それは何を意味するのでしょう。それをもっと明確に示しているのが、11節の終わりの言葉、「イエスは彼らをきょうだいと呼ぶことを恥としないで」という表現です。私たちと同じ名前を持つ。しかも、この手紙は「きょうだいと呼ぶことを恥とせず」といいます。ここに、この手紙の深い思いが込められていると読むことができます。

    この手紙を1世紀のローマの教会に対して書かれたものと考えるならば、そこで考えられる状況は、皇帝ネロの迫害という厳しい迫害の経験をし、その中を生き抜いてきた教会がなお続く迫害の中で、次第にその内部に信仰的なゆるみが生まれ、説教者の言葉に耳を傾けなくなる、あるいは集会を怠るような状況が生まれてきている、ということです。そういう教会を励まし、信仰に立つためにこの手紙が書かれたと考えられます。

    主イエスはへりくだって人となられた。ある意味で、「天使たちよりも劣る者」(7節)として。「というのは、多くの子たちを栄光へと導くために、彼らの救いの導き手を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の存在の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです」(10節)。私たちの「救いの導き手」は、その苦しみと死を通して私たちのために栄光へ至る道を備えてくださったばかりでなく、現在私たちを神のみもとに至る聖なる道に歩むにふさわしい者としてくださる。この救いの導き手を「完全な者とする」というのは、救いの導き手であるイエスが、救いを完成することがおできになるようにと、神がしてくださる。それがまことに神さまらしいことであったと感謝して語るのです。

    しかし、それはどのような神らしい歩みであったか。そのことを明らかにするために12節、13節に旧約聖書から3つの引用(詩編第22編23節、イザヤ書第8章17節、18節)から語られています。主は苦難の生涯を通して人間とひとつになられました。キリストは事実、人間の立場に立たれました。それゆえにキリストはまことの意味で人間の苦悩を察し、人間を助けることができる救いの導き手、パイオニアなのです。

    ヘブライ人への手紙は、このような救いの業を成し遂げてくださった主イエスを、「神の前で憐れみ深い、忠実な大祭司」(17節)として描いています。

    ところで、最近、教会は週報に人の名前を書くときに、誰々きょうだいというような書き方はしません。何々さんと呼び合っていますけれども、それは、私たちがきょうだいたちであることを否定するものではありません。主イエスは、ご自分のファーストネームを私たちに対しても名乗ってくださいました。主イエスは、私たちをきょうだいとすることを、胸を張って、誇りをもって迎え、「このきょうだいたちの集会においてあなたを賛美する」と神に言ってくださっています。そして、私たちの名乗りを待っていてくださいます。私たちはその事実を受け入れればよいのです。お祈りをいたします。(関 伸子)

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