今年から、めぐみ教会ではエズラ記を読み進めています。今日は 2 章の最後、
捕囚から帰還した人々のリストの締めくくりです。そこには、エルサレムに戻った
人々の総数と、彼らが最初にささげた献げ物のことが記されています。会衆全体
で 4 万 2 千 360 人。歴史的には、バビロンに残った人々の方がはるかに多かった
と考えられています。多くが安定した生活を続ける道を選び、帰還したのは少数
でした。「どうして、こんなに少なかったのだろう」。そんな問いが生まれます。
64 節以下には人数の詳細、さらに奴隷や詠唱者の存在も記されます。68~69
節には自発の献げ物の額が記されています。金 6 万 1 千ドラクメ、銀 5 千マネ。
現代の価値に換算すると莫大な額にもなり得ますが、別の換算方法をすれば、一
人あたりの負担は決して極端に大きいとは言えない数字にもなります。つまり、こ
の献げ物は「とても大きい」とも「そうでもない」とも言えるのです。
大切なのは、聖書がこの献げ物を神がどう評価したかについて沈黙していると
いうことです。聖書は、ただ事実を記すのみです。むしろはっきり語られているの
は 70 節、「イスラエルの人々は皆、自分たちの町に住んだ」という一文です。彼ら
は再び「自分の町」に住むことを許されました。土地は神の約束のしるしであり、神
の民としてのアイデンティティの根拠でした。その回復は、何より大きな恵みだった
のです。
2 章は冒頭と結びで「それぞれの町に帰った」と繰り返します。これはインクルー
ジオという技法で、その間に記された帰還者の名こそが中心だと示しています。そ
こに並ぶのは、必ずしも社会的に輝かしい人々ではありません。立場の弱い者、
外国系の名を持つ者、資格を失った祭司など、さまざまな背景を抱えた人々です。
しかし彼ら一人ひとりが数えられ、神の民として迎えられました。
さらに、2 章 2 節のリーダーの数は本来 12 人だったと考えられています。12 は
「すべて」を象徴する数。つまり神は、この帰還を「これで十分だ」「神の民として完
全だ」と受け止めておられるのです。人数の多寡や社会的評価ではなく、「神のた
めに生きる」と立ち上がったその一歩を、神は大きく受け止めてくださいました。
献げ物の額が大きいか小さいかは、決定的な問題ではありません。神は、私た
ちの小さな歩みを豊かに評価してくださるお方です。だからといって信仰を軽んじ
るのではなく、また他者と比較するのでもなく、与えられた精一杯をもって応えて
いく。その歩みを神は「パーフェクトだ」と言ってくださるのです。
たとえ私たちの教会の活動会員が二十人余りであっても、神はその群れを十分だと見てくださる方です。
私たちの小さな忠実さを喜び、神の民としての場を与えてくださる主がおられます。
その恵みを喜びつつ、今日も共に主の食卓にあずかりたいと思います。
(篠﨑千穂子)
