マタイによる福音書を読むと、主イエスが旅先のベツレヘムで生まれた直後、「難民」と
して、エジプトに行ったことが書かれています。エジプトから戻るとガリラヤ地方のナザレに
住み、その「ナザレを去ってゼブルンとナフタリとの地方にある湖畔の町カファルナウムに
来て住まわれた。」主イエスは、引っ越しを何度も繰り返しています。そこに住んだ、と。そ
してついに住むことになったカファルナウムで、ここに決定的なことが起こった。旧約以来
の約束が実現したのだ、と言うのです。「異邦人のガリラヤ/闇の中に住む民は/大いな
る光を見た。死の地、死の陰に住む人々に/光が昇った。」
「異邦人のガリラヤ」とは、「闇の中」「死の地、死の陰」とまで言われて、そこはまさに辺
境の地、見捨てられた地方でした。しかし、今こそ「時」だと受け止め、主イエスはそこに
住む人々の中に立ち上がったのです。そこに引っ越して、「住まわれた」。この福音書は「
神は私たちと共におられる」(1章23節)と書き始めました。どこにおられるのかと思って読
んでいったら、時の権力者に追われて逃げ惑う人々と共に、エジプトにおられる。そして「
異邦人のガリラヤ」そういう人々のところに引っ越して、そこにおられるのです。これが、神
のなさることだ、と言うのです。これこそインマヌエル。神は私たちと共におられる姿だった
のです。こうして、「闇の中に住む民は/大いなる光を見た。死の地、死の陰に住む人々
に/光が昇った」のです。
「闇」は、光が届かないところです。神さまから、かけ離れたような状態、喜びもなく感謝
もない状態です。そんなところに、好き好んで住む人などいないはずですが、人は、そこ
に住んでいる。住むしかなかったのです。この福音書を書いたマタイが、そうだったので
す。人から「売国奴」とか言われながら、人々から嫌われていた徴税の仕事に座り続けて
いました。事情は推し量るしかありませんが、そうするしかなかったのでしょう。自分が、神
に愛されているなんて、思ったこともなかったに違いありません。また、病気の人たちも、
神から呪われているから、こんな病気になったのだと、きっと思っていたに違いない。神の
愛とは無関係に生きている。闇が自分の住むところだと思って、もう何年も何年も、そんな
絶望の中に住んでいる人がいた。
しかし、その時、人は「大いなる光を見た」。自分の暗黒などいっぺんに吹き飛ばしてし
まうような明るい光を体験したのです。これが、主イエスが、ガリラヤに住むことで始められ
たことだ、と言うのです! 主イエスは言われます。「天の国は近づいた。」人が神の国に
近づくのではなく、神の方から、私たちの方へ近づいた、と言うのです。だから「悔い改め
よ」=向きをかえよ、と。
片意地張って、突っ張って来た人はいないでしょうか。しかし、その突っ張りの堤防が
決壊して、神に向かって、父なる神に向かって、子どものように「パパ」「神さま」と言って祈
り始める時が来ました。今、あなたの目の前に、あなたの本来の父である神さまが、そこに
引っ越してきて、向き合っていてくださるから。光の物語は、ここから始まります。
大いなる光、と言ってもそれは決して華々しくありません。見ず知らずの人が引っ越し
てきて、隣に住んだだけです。言ってみれば、そういう当たり前のことから、主イエスは天
の国、大いなる光を証されたと言ってよいでしょう。神がここに引っ越してきてお住まいに
なる。人はそれに気づいた時、大いなる光を見た、と言ったのです。
そして今度は、誰かの隣に住む私たちが、その誰かに、昇る光を証しする番になるに
違いありません。まさに私たちの教会、この礼拝こそ、そういう「私たちの証」をもって、集
まる場所です。「主がここにお住まいになり、主の光が昇っているではないか」と、そういう
証を、皆さん、きょうから共にいたしませんか? (カンバーランド長老キリスト教会日本中会牧師・潮田健治)
