カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2025年1月5日「礼拝する神の民」ローマの信徒への手紙12章1節

    高校生のころ、私はこのローマ12章1節を、「礼拝を守るための命令の書」と思っていました。

    その考え方はのちのち、「礼拝は守らなくてはいけないもの、守らなければダメなクリスチャン」というように、私の心を縛っていって、とても苦しい思いをするようになりました。

    けれども最近、「本当に神様はこの箇所でそんなことを言っているのだろうか?」と思うのです。聖書全体を読んでいると神様は、むやみやたらな命令で私たちを縛ったり断罪したりする方ではないような気がしてきます。

    では、このローマ12章1節は私たちに何を語っている書なのでしょうか。

    12章1節には、「生けるいけにえ」という言葉が出てきます。「いけにえ」は漢字で「生贄」と書くくらいですから、生きた献げ物であることは自明の理です。それなのに、どうしてわざわざローマ書は「生けるいけにえ」という表記をするのでしょう。

    「生」の反対語である「死」を、聖書は単に心臓が止まり体が朽ちていくことではなく、「神と断絶した状態」を指す言葉としています。つまり聖書において「生」とは「神と関係が回復された状態」を表す語です。そして「いけにえ」の役割について聖書は、「神と和解するためのもの」としています。ですから、「自分の体を生けるいけにえとして献げる」という言葉を別の言葉で言い換えるならば、こんなふうになるかもしれません。

    「神との関係が回復された者が、神との和解のために自分を献げる。」…おかしな日本語です。神と既に関係を回復された者が、どうして和解のために自分を献げなくてはいけないのでしょうか。

    でも、少し考えるとこれは、「私たちは神と和解をし続けなくてはいけない存在であるからだ。」と気づかされるように思うのです。

    私たちは、隙あらば神様と仲たがいするようなことばかりをしてしまう者です。神様が愛された人を愛することができなかったり、神様が管理を任せてくださったこの世界を滅茶苦茶にしてしまったり…。もちろん神様は私たちがイエス様を受け入れた時に、すべての罪を赦してくださって和解を完成させてくださったけれど、私たちはその喜びも感謝もすぐに忘れてしまう。だから、私たち側からは何度でも神様と和解をし続けなければいけない。神様に似せて造られた私たちは、神様と仲直りし続けたほうが、ずっと生きやすくなるように出来ています。だから、神様に応答して神と共にある喜びを確認し続ける礼拝を献げてほしい…そう12章1節は語っているのです。

    勘違いしていただきたくないのですが、神様はこの書を通して「礼拝を守らなくてはダメクリスチャン」だなんて一言も言っていません。ローマ書の著者パウロは12章1節における礼拝の勧めの根拠を「神の憐れみ(=慈しみ)」と主張しています。神様は、人間がどんなに裏切っても、決して人との約束を破ることをしなかった愛の方です。そんな神様に対してだから、私たちは和解をしたいと思えるし、その神様に向けて礼拝を献げることができるのです。

    礼拝は私たちが「守る」ものではありません。神様から与えられる礼拝は、私たちに守ってもらうことだなんて必要としていません。私たちは礼拝を「守る」のではなくて、神様から与えられたものとして喜んで「献げる」のです。

    聖なる生きたいけにえとして礼拝を献げ、神と和解をし続けることに喜びを感じること…それが初代教会に神様が勧めた基本的な事柄でした。先週は柳沢美登里宣教主事から、礼拝は本当の自分に回復されるときだと御言葉を取り次いでいただきました。神と和解し続けることを喜びを感じる神の民…そんな本当の自分に戻っていくのが礼拝です。

    2025年、私たちめぐみ教会はこの基本に立ち返って、礼拝を喜ぶことを見つめなおしていきたいと願っています。礼拝堂に集っておられる方も、それがかなわずオンラインで礼拝を献げておられる方も、礼拝する神の民としての喜びを、共に味わってまいりましょう。(篠﨑千穂子)

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