本日お読みした聖書は、十戒の直前に神様がイスラエルにかけた言葉です。ある意味において神様の自己紹介ともいえます。「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」自分の経歴と立場を主張するかのような自己紹介に、正直、「押しつけがましい…そして恩着せがましい自己紹介だな。」と私は思ってしまうのです。そして、どうして神様はこんな押しつけがましい自己紹介を十戒の直前になさったのかが気になります。そこで、ある友人に聞いてみました。「既に面識のある相手に、自分の経歴や立場を紹介すると、どんなメリットがあると思いますか。」友人の答えは、「自分が何をしてきたかを知ってもらうことで、相手との信頼関係を深めることができるというメリットがあるのでは。」というものでした。私の友人の言葉が正しいと仮定するならば…ですが、神様はイスラエルと信頼関係を深めたくて、押しつけがましい自己紹介をしたということになります。どうしてそこまで信頼関係を深めたいと思われたのか。単純に、「イスラエルが大事な相手だったから」でしょう。相手が大事な人であればあるほど、その人との信頼関係が失われそうになるときに、私たちは何とかして信頼を取り戻そうとするのではないでしょうか。十戒が人に与えられようとしているときというのは、そういう「神とイスラエルの信頼関係が失われそうに見えるとき」だったように思うのです。
「私は主、あなたの神、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出した者である。」と神様は仰ったし、歴史を見ると私たちは神様がエジプトからイスラエルを助け出されたことが真実だと知ることができます。けれども、この出エジプト記20章時点で、イスラエルはまだ約束の地に到着してはいませんでした。確かにイスラエルはエジプトから救い出されました。けれどもいつまで続くかわからない砂漠の旅に疲弊し、混乱し、神様を信頼したいけれど本当に信頼していいか迷うほどに苦しい日々を続けてもいました。混乱の真っただ中で神様は人々に10の戒めを与え、神の民としての生き方を示されます。けれども、それを示す前に、自分がイスラエルの神であること、エジプトから連れ出した神であること、それによって人々が奴隷という身分から解放されたことを押しつけがましく伝えるのです。イスラエルが大事だったから、信頼関係を回復されたいから経歴を主張されるのです。聖書がいう「生きている」ということは「神との関係が回復すること」とイコールだからです。それにしても、このときのイスラエルと現代のクリスチャンの私たち、同じようなものだと思いませんか?
私たちはイエス様を通して救われたクリスチャンです。けれども、クリスチャンになったからといってすべての問題が解決するわけではありません。「神様を信じているのに、クリスチャンなのに、どうして…?」と涙を流すこともあります。そういうことを思うとき、エジプトから救い出されたけれど苦しい旅を続けざるを得なかったイスラエルと、救われたけれど依然辛い状況が続き砂をかむように過ごすことがあるクリスチャンの日々が、私には重なって見えてくるのです。けれども、こうして神様への信頼を失いかけるイスラエルと私たちに、神様は語り掛けておられると思うのです。「私は主、あなたの神、あなたを苦しいところから救いだして、罪の奴隷から解放した者。この私を信頼して、これから語ることを聞いてほしい。大切なあなたが神の国を神の民らしく生きるために示すことを、どうか聞いてほしいんだ。」
来週から神様が与えてくれた10の戒めをご一緒に見ていきますが、そのときに私たちが忘れてはならないことは、「神様は十戒を、私たちとの信頼関係を前提として与えられている」ということです。もちろん、十戒を守るなら私たちは倫理道徳的に「正しい生き方」をできるようになるでしょう。けれども、神様は「正しい生き方」をしてほしくて私たちに十戒を与えるのではありません。神様が私たちに求めておられるのは、「神様を信頼して、神様と共に歩む生き方」です。こんな押しつけがましい自己紹介をしてまで私たちと信頼関係を築きたいと願われた神様が、今日も共におられます。このことを胸に、私たちはこの1週間も神様と共に歩き出したいと願うのです。(篠﨑千穂子)