カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2025年1月19日「ライバルなんて認めない!」出エジプト記20章3節

    本日は、十戒の第一戒「あなたには、私をおいてほかに神々があってはならない。」を見てまいります。

    私はこの箇所を読んだとき、知人夫妻のエピソードを思い出しました。このご夫妻が結婚したばかりのころ、仕事に行こうとしたご主人に奥様が、「仕事になんて行かないで私のことだけ見ててよ!ライバルなんて認めないんだから!」と泣いて縋ったのだとか…私には今日お読みした第一戒は、先ほどの奥様のように、「私のことだけ神だって言ってよ!ライバルなんて認めないんだから!」と神様が人に向かって叫んでいるイメージが湧いてきました。でも、私にはこの愛、正直ちょっと重いのです。そして「こういうみことばを読んだら、キリスト教を嫌いな方から『キリスト教って一神教で排他的だから嫌い!』と言われてしまいそう」…と少し気も重くなってきてしまいます。でも、こんな重い気持ち、聖書をきちんと理解すれば払拭できるはずです。神様が私たちのためにこのみことばをくれたのならば、私たちが肯定的に受け止めるヒントがどこかに隠れているはずですから。

    この時代、パレスチナでは多くの神々と呼ばれるものが拝まれていました。いわゆる多神教の文化です。そして多神教の人々は、その神々の中にこの世界を造った創造主がいることを期待して、「多くの神々の中にいる創造主を拝むことで、この世界の支配権を得られるに違いない」と考えていたそうです。一方、聖書の神様は「神はただおひとり」という一神教の教えを説いています。聖書の神様は、ご自身を創造主でありこの世界を治める主であるとおっしゃっていて、私たちはこの神様を礼拝してもこの世界で支配者になれるわけではありません。一神教を教える聖書が大事にしているのは、多神教の教えのように「この世界を神に代わって支配すること」ではなく、「神がこの世界でなさることの適切さを認めること」にあります。自分が力を得てこの世界を生き抜くための信仰か、この世界を造った神様の善意に信頼して生きる信仰か…多神教と聖書の教えとの違いは、ここにあるようです。

    このことを踏まえて出エジプト記20章3節を読むとき、第一戒は神の「私のことだけ神だって言ってよ!ライバルなんて認めないんだから!」という度量の小さい叫びではなくなってきます。そうではなくて、「あなたは私以外の神を拝むことで、この世界を支配しようとしてはいけない。私のすることの適切さを認めなくてはならない。」という意味に読み取ることができます。

    私たちの周りには神に似たものが溢れていて、それらのものからわかりやすく遠ざかると、クリスチャン世界では褒められがちです。けれども、他の価値観をもつ隣人を大事にするために、私たちは時折他の宗教行事に参加せざるをえなくなることがあります。そういうとき、私たちは自分の行動の動機がどこにあるのかを確認する必要があるでしょうし、また他宗教の行事に参加する人をいたずらに責めることもしたくはありません。「あなたは私以外の神を拝むことで、この世界を支配しようとしてはいけない。私のすることの適切さを認めなくてはならない。」と命じられているのはイスラエル(=神の民)であり、私たちクリスチャンです。もし私たちが第一戒をもって他の誰かを責めるならば、それは神の名によって自分と違う価値観を持った隣人を排除しようとするということに他なりません。「神様のライバルなんて認めない!」と私たちは肩ひじをはる必要なんてないのです。この世界は誰が何と言おうと、神様が作られた神の国なのですから。

    神の国で神の民として生きている私たちには、この第一戒から「神を信じる者として、自分がどういう選択をしているか」が問われています。神様は私たちを個性あふれた人格に造ってくださって、それぞれの状況を与えてくださっています。どういう選択をするかは、私たち個々人に委ねられているのです。「あなたは私以外の神を拝むことで、この世界を支配しようとしてはいけない。私のすることの適切さを認めなくてはならない。」と、神様は今日も私たちに語り掛けておられます。今日の私にとって、そして皆さんにとって、神様のなさりようの適切さを認めることとは、一体どういうことを指すでしょうか…。ひととき、考える時間を持ってみませんか?(篠﨑千穂子)

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