私は子どものころ、この出エジプト記20章7節、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに唱えてはならない。」を読んで心から不思議に思った覚えがあります。「教会で、『神様、神様』って言っている人は『信仰深い人』と褒められているように見えるのに、どうして神様の名前をいっぱい唱えたらいけないってこの聖書の箇所は言っているのだろう?」今日は、甚だ個人的なことで申し訳ありませんが、この疑問の解決に皆さんにもお付き合いいただければと思います。
まず、「名」(=名前)ってなんだろう?ということを考えてみました。名前とは、古代パレスチナにおいて、主に3つの意味をもったものだったようです。1つめは、その人の生き様や生まれた時の経緯を表すという意味。2つめは、「名前を付けたり名前を呼んだりする人は、名前を付けられたり名前を呼ばれたりする人を支配する」という概念。3つめは「神の名」に限定された概念なのですが、当時「神の名(異教の神の名…ですね)」は呪文に用いられていたのだそうです。そう考えると、神の名前を呼んだり使ったり唱えたりということには、相当な注意が必要だったということが分かってきます。それでも、詩編などを見るとやはり「主よ、主よ」と神の名を呼ぶことは良いことのように思えてきますから、「主の名を唱える」ことが禁止される理由にはまだ疑問が残ります。もしかすると、この戒めにおけるキーワードは「名」ではなく「みだりに」にあるのかもしれません。
「みだりに」を表すヘブライ語は、もともとは「空っぽ」「根拠がない」「空しい」という意味を持ち、転じて「濫用する」という意味で使われるようになったそうです。そして「濫用する」とは「本来の使用意図や制限から逸脱して、当事者の利己的な目的で使用すること」を意味すると手持ちの国語辞書には書かれていました。かみくだいていえば、「もともと使われる目的や意味を越えて、自分勝手な理由で使うこと」を濫用と言うようです。ですから、「主の名をみだりに唱えてはならない」とは、「神様の名前を、もともと使われる目的や意味を越えて、自分勝手な理由で使ってはいけない。」という意味になるでしょう。
では、「神様の名前」のもともと使われる目的とは何でしょうか。それは、礼拝や賛美や祈りや証といったように、神様の本質を言い表したり、神様に感謝したり、神様との関係性を深めるためといった目的をいいます。気を付けなくてはいけないのは、それ以外の神の名の用い方です。例えば最近、アメリカ大統領就任式を受けての、ワシントン大聖堂での礼拝説教が話題になっています。大統領が旧約律法を用いてLGBTQ排除の主張をしていることに対し、大聖堂の主教は「神を愛せよ、人を愛せよ」というイエスの大事にされた律法をもって弱者への慈悲を求めました。私はこの場で、大統領と主教のどちらが正しいかということを論じるつもりはありません。ただ、どちらも聖書を根拠にした主張をしており、その主張が真っ向から対立する場合、どちらかが(あるいはどちらも少しずつかもしれませんが…)「主の名を濫用している可能性」があると思うのです。神の本質を言い表したり感謝したり関係性を深めること以外の「主の名」の用い方を、神様は厳しく戒めます。自分の利益や自分の主張を通すために神の名を使うことを、神様は禁じられているのです。多分それは、そんなふうに神の名を使うと、虎の威を借る狐のように神の権威を借りた人が、他の誰かを傷つける危険性があるからでしょう。神の名を盾に自分の主張を通したり、神の名を使って誰かを貶めたり、神の名を用いて誰かの存在意義を否定する…私はこういうことを「主の名をみだりに唱えること」だと思うのです。
私たち一般のキリスト者も「主の名をみだりに唱えること」に注意を払う必要があります。自分と違う考え方をする人を、「あの人の信仰ってちょっとおかしいよね。」そんなふうに考え始めたら、それは「主の名を自分のために用いること」(=「主の名をみだりに唱える」)ことの始まりです。社会の表舞台に立つ人達だけでなく、私たちもキリスト者の看板を背負う者として、「神様の名前を、もともと使われる目的や意味を越えて、自分勝手な理由で使うこと」を自分に戒めたいと思います。神の名を濫用すると、私たちは神の名を用いる自分が一番正しいような気がしてきて、神の名を盾に自分の主張を通したり、誰かを貶めたり、誰かの存在意義を否定したくなっていくかもしれません。けれども、神の名を賛美し、神の名において祈り、神の名において礼拝し、適切に神の名を用いるならば、私たちは神様との信頼を深めていくようになって、信頼する神様が心から愛された私の隣人たちを愛せるようになるのではないでしょうか。それがたとえ今は愛することができない隣人であったとしても…です。神の名を「みだりに」ではなく、「適切に」求めてまいりましょう。いつか隣の誰かに「君の名は?」とあたたかく声をかけられる、今は愛せない人を心から大切に思える私たちに変えられていくことを、祈りながら。(篠﨑千穂子)