私には「十戒の第五戒を読むと嫌な気持ちになる」という友人達がいます。彼らはこの戒めを読むと、威張りん坊の父親から「俺の話を聞け!俺の言うことを聞けないなら出ていけ!!」と怒鳴られたり、「どんな親でも親は親だ、言うことを聞け!」と怒られているイメージが湧きあがってくるのだそうです。よくよく聞くと、彼らは難しい家庭で辛い子ども時代を過ごしていて、そういう方にとって第五戒は確かに酷だよなぁ…と思わされるのです。でも神様はこの第五戒を通して、本当にそんな威圧的なメッセージを送っておられるのでしょうか。第五戒は本当は何を伝えたかったのか、ご一緒に考えていきたいと思います。
この戒め、実はとても興味深い点があります。強い家父長制度の文化の中にあって、「父」だけでなく「母」を敬うことを勧めている点です。もし前述の友人の言のように神様が威圧的な思いから第五戒を命じられたのならば、「あなたの父を敬いなさい」だけでよかったはずです。ここで「父」と「母」が等しく敬われる必要が説かれていることが、第五戒のひとつめのポイントです。次に「敬う」ということについて考えていきましょう。「敬う」とはヘブライ語では「神を大いに喜ぶ」「神に栄光を帰す」といったように、対象を「神」とすることが普通で、私たちが献げている礼拝行為に限りなく近い意味で使われる語なのだそうです。ですから、「あなたの父と母を敬いなさい」とは「あなたの父と母を等しく大切にしなさい。まるで神を礼拝するように大切にしなさい。」という意味になるかもしれません。
そもそも、十戒とはなんでしょうか。旧約聖書学者W.ブルッゲマンは「十戒とは偶像礼拝を排除し、搾取から隣人の幸福を守るもの」と説明しています。出エジプトのイスラエルに、これまで住み慣れたエジプトの偶像にも、旅の中で出会うあらゆる偶像にも礼拝をしてはいけない、これらの偶像を支配しても支配されてもいけないと神様は命じられました。更に被造物のすべてを、神様が愛されたように愛して、決して彼らを搾取してはならない、弱い立場の人たちを大切に扱うようにとも命じられるのです。そしてどうやら、この出エジプト記20章12節で言うところの「弱い立場の人たち」とは、「父と母」…特に老いて働くことができなくなった親を指していたようです。
福祉が整っていない古代社会において、働くことのできなくなった老人は蔑ろにされ、いざというときには口減らしの対象とされました。神様はそんな老親が生きるシステムを提供されたのです。これまでイスラエルが生きてきたエジプトの「強者が生き残る世界」とは全く違う世界、老いた「父」だけでなく「母」をも敬われる世界、弱い者が神や礼拝と同じように大切に取り分けられる世界、それが神様が求められた神の民の新しい世界の在り方でした。その結果、「あなたは長く生きることができるようになる。」と神様は約束を下さるのです。
当時の社会において、「長寿」は「祝福」の指標のひとつでした。超高齢化社会を生きる現代の私たちには俗っぽくさえ思える指標ですし、悠久の時を支配される神様の目から見たら、もしかしたらちっぽけな価値観に見えたかもしれません。それでも神様は、彼らの「幸せの価値観」を尊重されて「長寿」を彼らに約束されました。ちっぽけな私たちがちっぽけな自分の価値観の中で、「神の民として生きることって幸せだ!」と感じられるように導いてくださったのです。そんなことを思うとき、神様ってつくづく優しい方だと思わされます。この第五戒は、社会的に無力とされている人を決して虐げることなく神を礼拝するように大事にすることを勧めている戒めです。その中に私たちの幸せがあるのだと説いています。神様は私たちに「俺の話を聞け!!俺の言うことを聞けないならクリスチャンなんてやめちまえ!」とか「どんな親でも言うことを聞け!」といった乱暴なことをおっしゃってはいません。「私の話を聞いてほしい、無力とされている人を、私を礼拝するのと同じように大事にしてほしい。あなたの幸せは、その中にあるのだから。」そうおっしゃっているのです。私たちは、イエス様が再び来られる日、今は無力などなたかと、今は無力な私たちが共に食卓に着くことを信じています。この日を目指して、私たちは主張の強い誰かの話を聞くのではなくて、細くて小さい神様の声に耳を傾け続けたいと願うのです。(篠﨑千穂子)