「殺してはならない。」句読点を入れてたった9文字のシンプルすぎる戒めが本日与えられています。シンプルすぎるものって実は却って複雑です。今回説教を準備していて、私の中にも、「『殺してはならない。』って、その対象は?」とか「どんな場合でも殺しちゃいけないの?正当防衛は?旧約聖書って戦争の記事がたくさんあるけど?」「そもそも私、人を殺したことないし、多分これからも殺さないと思うんだけど…そういう私にこの戒めって何の意味があるのかな?」などなど様々な疑問が湧き上がってきました。このシンプルすぎる戒めが私たちに語りたいことは何なのでしょう。
「殺してはならない。」という戒めが与えられたころ、イスラエルの民は出エジプトの旅の真最中でした。彼らが出てきたエジプトでも、そして旅の途中で出会う多くの地方でも、このころ人間犠牲と呼ばれる悲しい習慣がありました。自分の願いをかなえてもらうために、人を生贄に献げるのです。水の少ないパレスチナは、今も昔も生きることが難しい土地ですから、それぞれの土地の人々は生きるために致し方なく人間犠牲をしていたのでしょう。けれども神様はこの習慣に待ったをかけます。人間犠牲をしていたわけではないイスラエルに、「殺してはならない。」と命じられたのです。
「殺す」を意味する言葉はヘブライ語にいくつもありますが、この13節で使われているのは「ラーツァハ」という言葉で、「故意に人を殺す」「計画的に人を殺す」というように「わざと」「人を」殺すことに限定して使われることの多い語です。神様はイスラエルに、かつて住み慣れたエジプトとも、これから入ろうとしている土地の人々とも同じ価値観を持ってはいけない、人を計画的に殺してもいけないし、人間犠牲を献げてもいけないと主張されます。殺すという行為は、単に命を奪うことではなく、その人の持っている可能性や幸福を奪って、社会秩序や平和を破壊してしまうものだからです。「人を殺す」とは暴力的な行いだけでなく、精神的・経済的に誰かを支配し、搾取する間接的殺人のことも指します。神様はこのような行為を戒めることで、被造物すべてが「生きていてよかった。」と思える世界を造るようにと命じられます。すべての被造物が誰にも搾取されない幸福を感じられる世界…それが神様が私たちに管理と完成を託された神の国です。
その一方で、「では正当防衛は?旧約聖書の戦争の記事ってどういうふうに考えればいいの?」という疑問が湧き上がってきます。結論から言えば、旧約聖書は状況に応じて殺人を認めています。ただし、この「状況に応じて」とは、人の状況に応じてではなくて「父なる神様が命じられたときのみ」という意味です。出エジプトの旅は、神の民がそのアイデンティティを確立させるために与えられました。神の民としての生き方を確立させ、それを後代に正確に伝えられるようになるには、まず異教の民に染まらない特別な生活基盤を築く必要がありました。そのために、神様はこの時代に限定して、他民族からの防衛的な戦いのみを許されたのです。そして、神の民の戦いは、「民が弱ければ弱いほど勝利する」という不思議なものでした。民は弱ければ弱いほど神を依り頼み、民から信頼された神は彼らに勝利をもたらします。このことを通して神様は、「神の国では、弱い者が最も強いのだ。この世の非常識が神の国での常識なのだ。神の民の生き方とはそのようなものなのだ。」と示されます。これらのことを示すため、神様は限定的に防衛戦のみを認められました。その後神様は、神に背いて政権争いや侵略のために戦争を用いるようになったダビデ王国に、バビロン捕囚という裁きを与えられます。ミカ書4章3節等からも、イスラエルが神の民としてのアイデンティティを確立したあとの時代には、既に神様が非戦を説いておられたことが示されています。もし私たちが現代において「聖戦」を行うならば、それは神の名を騙った侵略行為以外の何者でもありません。
「殺してはならない。」という戒めと、神主導に見える旧約聖書の戦争物語と、非戦のビジョンは、一見矛盾するように見えるため私たちを混乱させます。けれども、神様は一貫して「神の民はいかなる偶像にも仕えないこと」「神の民は隣人の幸福を搾取しないこと」「神の民は神に依り頼むとき、どんなに弱く見えても驚くほど強いこと」を示しています。私たちは隣人の幸福を搾取し、隣人の命を脅かすとき自分の心をも殺してしまう者たちです。神に似せて造られた私たちは、隣人の幸福を守るとき、幸せを感じるように造られているからです。私たちの幸福を願って、「殺してはならない。」という戒めをくださった神様に信頼をして、私たちの深刻で身近な悩みを、今日も委ねていきたいと願います。(篠﨑千穂子)