カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

  • 〒207-0023
    東京都東大和市上北台3丁目355-4
    TEL 042-564-0593

    お問い合わせ

  • 2025年3月23日 「To Kill a Mockingbird」 出エジプト記20章15節,エフェソの信徒への手紙4章28節

     この第八戒「盗んではならない。」と第十戒の「隣人の家を欲してはならない。」は一見同じようなことを言っているように見えます。通常盗みをする人は、「何かが欲しい。でも自分の力では手に入らない。」というとき盗みをするためです。けれども、「盗んではならない」とはその対象を「人」に限定する解釈が伝統的になされてきました。更に当時の社会状況を鑑みると、「奴隷にするために人を誘拐してはならない。」という意味になるようです。では、「奴隷」や「誘拐」が日常とあまり関係がない現代日本において、私たちは第八戒をどのように大切にしていけばいいのでしょうか。

     現代の私たちの感覚で見ると、奴隷制度は弱者を犠牲にするシステムでとんでもないものに見えますが、当時の奴隷制度は不安定な古代の経済システムを支える重要な存在で、かつ法制度も整っていたようです。「奴隷は最長6年までしか奴隷でいられない」「主人から暴力を受けたら、即座に自由民に解放される」「奴隷を殺した主人は死刑に処せられる」「自由民と同様に週に1回休暇をとる」など…これらの規定が守られるか否かは主人の裁量に大きく依存していたとはいえ、守られるべき建前が存在していた点において、当時の奴隷制度は今でいう「雇用関係」と似通ったものがあるように思います。また「誘拐」とは「他人を自分の支配下に入れ、自由を奪うこと」を言いますから、「盗んではならない」=「奴隷にするために人を誘拐してはならない。」とは、「雇人を自分の支配下に入れ、自由を奪ってはいけない」という意味になるでしょうか。そう考えると、「盗んではならない。」という第八戒が、私たちの身近なところにくるような気がします。私たちは人を奴隷にすることはなくても、雇用関係に入ることはあるし、その中で誰かを自分の支配下に入れて自由を奪ったり、奪われてしまったり…ということがありうるからです。そういう会社のことを「ブラック企業」というようですが、「ブラック企業」の要件を見た時、私は少しヒヤッとしました。教会の構造とちょっと似ていたからです。ブラック企業は、長時間労働が賛美されたり、パワハラ・モラハラが横行したり、働いている人の尊厳が否定されたり、休日が極端に少なかったりといった理由で離職率が高くなり、慢性的に人手不足なのだそうです。良い悪いにかかわらず、教会も奉仕をたくさんする人は褒められますし、奉仕に対する姿勢が自分と違う人には手厳しくなってしまったり、喜びベースだった奉仕がいつしか義務化していって一生懸命奉仕をしていた人が教会から離れていって、残った人たちに物理的にも精神的にも負担が増えていく…なんてことが時々起こります。教会は構成している人々の根っこにあるのが信仰と良心である分だけ、ブラック企業化してしまったとき、一般の団体より厄介なことになってしまいやすいのかもしれません。

     本日の説教題は「To Kill a Mockingbird」としました。映画「アラバマ物語」の原題で、「マネシツグミを殺すこと」という訳になります。このマネシツグミとは無力な人の象徴で、「マネシツグミを殺すこと」とは、「無力な人を理不尽に傷つけること」を言うのだそうです。この物語の中で、主人公が「相手の靴を履いて歩いてごらん(=「相手の立場に立って物事を考えてごらん」の意)」と言う場面があります。「相手の靴を履いて歩いてみる」と、自分の良し悪しの基準を捨てなければならない場面に時々出くわします。私たちは自分の靴で歩き続けると、自分にとって大事なものは人からも大事にされて然るべきと思ってしまうし、自分が頑張ったらできることは人も頑張ったらできると思ってしまいます。そして相手を努力不足と断罪してイライラしてしまう…相手の靴で歩くことができないとき私たちは、たびたびこんな思いに取りつかれて、教会の中でさえお互いのことを裁いてしまう者です。でもそうすると、教会はブラック企業化し、意図せずに誰かを傷つける「To Kill a Mockingbird」の世界に突入してしまいます。神様はそんな私たちに「盗んではならない。」に付け加えて、むしろ助けよというメッセージをエフェソ4章28節で語られるのです。ともすれば自分の靴(自分の信仰や良心)を大事にするあまり、相手を裁きかねない私たちに、「相手の靴を履いて歩くこと」すなわち、「相手の立場にたって、信仰や良心を信頼してみてごらん。その人を助けてあげるんだよ。」と語られるのです。無力な人を傷つけたりすることのない生き方、マネシツグミを殺さないで済む生き方が、私たちにはきっとできるはず…神様が共におられるのですから。私たちが戒めを守れるときも守れないときも、変わらず共にいて見捨てない神様に励まされながら、今日も無力な人を助け、無力な自分を助けてもらう生き方を模索してまいりましょう。(篠﨑千穂子)

    TOP