カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  •  2025年4月13日「牛とかロバと同列ですか」出エジプト記20章17節

     今日は十戒の最後、出エジプト記20章17節を見ていきます。「隣人の家を欲してはならない。隣人の妻、奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲してはならない。」私にはこの戒めを読むたびに思い出すエピソードがあります。10年ほど前、神学校進学をあるご婦人に伝えたとき、この17節について質問を受けたのです。彼女の教会では、この節を二つの戒めに分け、「隣人の家を欲してはならない」と「隣人の妻、奴隷、牛、ろばなど、隣人のものを一切欲してはならない」と教えられているそうなのですが…一見同じような戒めが二つに分けられている理由もわからないし、妻が牛やロバと同列に並べられているのも納得できないとのことでした。「この箇所を読むたび、妻である私は牛やロバと同列ですか?ってモヤモヤするのよ。千穂子さん、いつか私にこの箇所の意味を教えてくださらないかしら。」そんなお願いをされました。果たしてこの箇所は、本当に彼女が言うように、「妻は牛やロバと同列だ」と言っているのでしょうか。今日はこの疑問を一緒にたどりつつ、聖書の奥にある神様の思いを探っていきたいと思います。

     調べてみると、この箇所におけるヘブライ語の文法構造では、「隣人の家」と「隣人のもの」が別の目的語になっていて、それぞれに「欲してはならない」がかかっていました。この構造により、カトリックやルター派の教会では17節が2つの戒めに分かれて教えられているそうです。また、「隣人の家」とは土地を意味していました。イスラエルにとって土地は神様からのプレゼントです。そのため他人の土地を羨むことは、神様が下さるものを軽んじることと同じ意味を持ちます。そして「隣人のもの」に含まれる「妻・奴隷・牛・ろば」についてですが、古代パレスチナでは「妻・奴隷・牛・ろば」は男性の財産目録の基本項目であり、当時の婚姻・奴隷制度の中で妻や奴隷は「所有物」として扱われてきました。この戒めは当時の社会的背景を含んだイスラエルに与えられたものですから、この箇所をもって男性優位の婚姻制度や奴隷制度の是非を問う材料にはなりません。この戒めの核心は、ただ、「隣人の所有物を、自分の欲のために奪おうとしてはならない」ということになります。さらに、「欲してはならない」の原語「ハーマド」は、単なる「うらやむ」という意味ではありません。「激しい欲望を抱き、策略をもって奪おうとすること」と、ある聖書学者は説明をしていました。単なる「願望」や「憧れ」を越えて、「自己満足を求める衝動的な欲望」であるところの「ハーマド」…つまりこの戒めは、隣人のものを、自分の心の欠けを埋めるために強迫的に求め、時にそのために相手を傷つけてしまうような、そういう激しい欲望に対する警告なのです。私の周りにも、何かを強く求めすぎるあまり、自分や他人を傷つけてしまう方がいます。でもそういう方は、決して悪い方ではなく、多くの場合、心に深い傷を抱えて生きている方ばかりです。例えば、幼い頃の飢えから過剰に食料を蓄えてしまう方、自分が学歴のことで苦労したために子どもに教育虐待に近いことをしてしまった親御さん、美しい子どもだけを愛する親の下で育ったせいで美への執着が激しくカード破産に至った女性…それぞれの方が「満たされない思い」や「愛されなかった記憶」「自分を健やかに愛することができない苦しさ」に振り回されながら生きています。神様は、そういう私たちに向かって語られます。「隣人のものを、自分の欲望で奪おうとしてはいけない。それは、神に似せて造られたあなたをもっと傷つける生き方だから。」

     「じゃあどうやって生きていけばいいのか」と問われたら、私は残念ながら明確な答えを持ってはいません。けれども、一つだけ確かなことがあります。それは、エジプトからイスラエルを救い出してくださった神様を、私達が自分の神として信じると決めたなら、神様はその信仰を「義」と見なしてくださるということ。そして私たちの心の傷を、全能の神様が少しずつ癒してくださり、私達を変えてくださるということです。だから私たちは、自分の欠けを満たすために何かを奪わなくてもいい。 満たされない思いに怯えなくてもいい。 自分で心を変えようと無理をしなくてもいい。ただ、神様により頼み、共に歩んでいくとき、私たちの心の傷は少しずつ癒され、やがて私たちがずっと求めていた「約束の地」が目の前に広がっていく…私はそう信じているのです。(篠﨑千穂子)

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