カンバーランド長老キリスト教会

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  • 2025年4月20日「見る→信じる→理解してない」ヨハネによる福音書20章1~10節

    今日お読みした聖書には、さらりと不思議なことが書かれています。普通、私達は何かを信じるとき、「見る→理解する→信じる」というプロセスを経るように思いますが、復活の朝にイエスの墓にやってきたヨハネは「見る→信じる→理解してない」という不思議なプロセスを経ているのです。この不思議な順序を通して、神様が私たちに伝えようとしているのは一体どんなことなのでしょうか。

    彼らが「見た」ものについて、まず確認をしていきましょう。彼らが見た最初のものは、「開いた墓」でした。数トンもある墓石を誰が何のためにどかしたのか…不思議な光景の一つ目です。二つ目に彼らが「見た」ものは、遺体を包んだ亜麻布が「丸めてあった」(=別訳「包んだ時のままで置いてあった」)ことです。まるでイエスの遺体だけがスッと気化して消えてしまったかのような不思議な光景…ヨハネはこの光景を見て、「信じた」と福音書には記されています。それにしても、彼は何を信じたのでしょうか。

    「信じる」という言葉は、ギリシャ語で「委ねる」「任せる」という意味を持っています。そして「信じる」の名詞形は、かつては「信仰」と訳されてきましたが、最近はギリシャ語の研究が進み、「神の真実さや誠実さ」と訳されることが増えてきました。つまり、「(ヨハネは)信じた」とは「ヨハネは神の誠実さに身を委ねた」というふうに訳しなおすと分かりやすいかと思います。ヨハネは、遺体がスッと消えたかのような亜麻布を目撃して、「神の誠実さに身を委ねることにした。」つまり「これはイエスの復活で神の業だ。神様は誠実な方だ。」と神様に身を委ねることにしたのです。復活したイエスを見たわけではないし、イエスの復活を完璧に理解はできなかったけれど、神の誠実さを信じてみようと思った。彼にとって「信じる」とは「よくわからないけど、信じてみよう。」というものだったのかもしれません。ヨハネによる福音書20章29節で復活したキリストは「見ないで信じる人は、幸いである。」と言っています。ヨハネは見ないで信じた人の先駆者であったとも言えるでしょう。

    一方で、もう一人の登場人物ペトロはどうだったでしょう。イエスの十字架の出来事の際、三回もイエスを否定したペトロ。そのことをどれだけ後悔しても、もうイエスはおられない…そんなペトロもヨハネと同じく、「開いた墓」と「包んだ時のままの亜麻布」を見ました。けれども、彼は信じるには至らなかったようです。理解できなくても信じることができたヨハネが隣にいたのに…自分は十二弟子のリーダーなのに。「自分はどうして信じられないんだ。」「あの日、イエス様を全否定した自分だから、ダメなのかなぁ。」そんな悲しみが彼を襲ったでしょうか。けれども、20章9節はこう記しています。「イエスが死者の中から必ず復活されることを記した聖書の言葉を、二人はまだ理解していなかったのである。」…「まだ」とは、ギリシャ語では「現時点ではそうなっていない。」「いずれそうなる可能性があるけれど、今はそうではない。」という意味を持つ言葉です。ですから20章9節は、「イエスが死者の中から必ず復活されることを記した聖書の言葉を、二人はこれから理解することになる。理解する途中にある。」という意味になるでしょう。

    最初から全部わかる人なんて、ひとりもいません。弟子のリーダーであるペトロにも、「見ないで信じる幸い」にあずかったヨハネにさえわからなかったのです。でも、このあと二人はそれぞれに、聖霊の助けをいただいてイエスを理解するようになって、その復活を証しする素晴らしい器に変えられていくのです。そんなふうに、変えられる前の彼らを支えたものが、「これから分かっていくという希望」であったのかもしれません。だから、私達も諦めなくていいのです。全部わかることはこれから先もないかもしれないけれど、私達に必要なことを神様がそれぞれにわかるようにしていってくださいます。だからイースターは、「わかってなくても、信じていいんだよ。」「失敗したって、やり直せるんだよ。」そんなメッセージを与えてくれている希望の日なのではないでしょうか。私たちに希望が与えられたその日だから、イースターおめでとうございます。希望の源である主イエスの復活をお祝いしましょう。(篠﨑千穂子)

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