カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2025年5月18日「カミさまに叱られる!」エフェソの信徒への手紙2章1~10節

    エフェソ書の1章では神様の先行した恵みと愛が強調されてきましたが、2章に入ると、「過ち」「罪」「死」「不従順」「肉の欲」「神の怒り」といった、不穏な言葉が目立つようになってきます。これまで優しく温かく穏やかな眼差しを私たちに向けてくださっていた神様が、突然私たちを叱ってくるかのように感じられるこの論調、これは一体どういうことなのでしょうか。

    エフェソ書の著者パウロは、2章1節で罪の問題を他人事ではなく、身近な現実として受け止められるように、エフェソの人々の世界観を用いて「罪」について説明をしています。そして3節では「罪」と言う言葉を「肉の欲のままに生きること」と言い換えています。「肉の欲」と聞くと、私たちは「本能的で衝動的な生き方」「快楽主義的で性的に奔放な生き方」「自己中心的な生き方」などを想像するかもしれません。けれども3節でパウロは「私たちも皆、(中略)肉の欲のままに生き…」と書いています。パウロは自分の生活に徹底的な制限を課し、律法を厳格に守ることで神への忠誠を表すファリサイ派のエリートだった人ですから、彼のかつての生活が、「本能的で衝動的な生き方」「快楽主義的で性的に奔放な生き方」「自己中心的な生き方」であったということはあり得ません。けれども、彼が「私たちも皆、(中略)肉の欲のままに生き…」と言うならば、「肉の欲」とは私たちが持っているイメージとは異なる可能性が出てきます。彼の言う「肉の欲」を理解するためには、パウロの人生を振り返る必要があります。

    前述の通りパウロは、自分の生活に徹底的な制限を課し、律法を厳格に守ることで神への忠誠を表してきました。一見「肉の欲」とは正反対にいる生き方ですが、彼は自分のかつての生き方を「肉の欲」と評します。なぜでしょうか。それは、彼が律法をすべて厳格に守り、自分なりの「正しさ」を追い求めるあまり、同じように生きていけない人や、自分の信仰観と異なるあり方をするキリスト者たちを否定し、迫害し、ついには多くの人の命を奪ってしまったからです。自らの正義のためには人を殺すことさえ厭わなかった…そのような生き方こそ彼にとっての「肉の欲」すなわち「罪」だったのでしょう。聖書において「罪」とは「神から離れた状態」を指す言葉です。現代日本に生きる私たちは、迫害や殺人と言った極端な行動に出ることはないかもしれませんが、心の中で誰かを否定することによって、神が与えてくださった隣人を見下したり遠ざけたりすることがあります。そうした生き方もまた、「肉の欲のままに生きること」「神から離れた状態」に繋がるのです。

    そしてそのような罪こそ、本来は「神の怒り」の対象であるとエフェソ書は伝えます。ここで使われている「怒り」と言う言葉は、ギリシャ語では「憐れみ」の対義語で用いられています。新約聖書では、キリストが深く悲しんだ場面でも使われている語です。そう考えると、「神の怒り」とは単なる憤怒ではなく、「憐れみによって見過ごしたいけどそうすることができない、人間の罪に対する神の深い悲しみ」と表現できるかもしれません。神様は、罪を犯した人をそのまま見過ごすことができない方です。人を愛しておられる神様は、神に似せて造られた人間がご自分から離れたら幸せに生きることができないことを知っておられます。だから、人の罪(神から離れること)を見過ごしにしておくことができないのです。人を深く愛しているけれども、人は神から離れてしまっている…そのジレンマの解決法が、キリストをこの世界に送ると言うことでした。4~7節には、キリストによって人の罪がどのように解決されたかが語られています。神は「怒り」の対義語である「憐れみ」によって、私たちをキリストと共に生かしてくださいました。神はキリストの復活と共に、私たちとの関係も復活させてくださいました。神はキリストと同じように私たちを神の子と扱ってくださいます。神はキリストを通して私たちを愛し、豊かな恵みを世界に示しておられます。ここでいう「キリストを通して」とは、「私たちがキリストを信じる決断を通して」という意味です。キリストを自分の救い主として受け入れる、「神を信じてみよう、私の人生を神に賭けてみよう」とたった一度決心するだけで、そのあと私たちが失敗を重ねることも百も承知の上で、神様は私たちを神から離れた状態や、したくない行いや思いに支配されている状態や、隣人を愛せない状態から、私たちを救い出してくださいます。本来は「神の怒り」を受けるべき存在だった私たちが、神に喜ばれる器へと造り変えられ、神の作品として善い行いをする者と変えられていくのです。だから私たちは、神様に叱られることをおびえて暮らす必要はありません。私たちを怒りによって支配するのではなく、憐れみをもって導いてくださる造り主なる神様に、心からの感謝と信頼をもって、この1週間を歩みだしてまいりましょう。(篠﨑千穂子)

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