私の友人で「神の家族」という言葉が大嫌いな人がいます。「『神の家族』とかいうくせに、教会の人に助けを求めても全然助けてくれなかった。『神の親戚』なら現状に近いし、諦めもつくのに。」というのです。彼女のいうことに一定の理解をしつつも、「じゃあこのエフェソ書2章で敢えて「神の家族」という言葉が使われている理由って何?」とも思います。本日はその理由をご一緒に考えてまいりましょう。
「神の家族」という言葉が出てくる前に、エフェソ書2章に書かれているのは、ざっくり言うと「あなたがたは異邦人で神と無関係とされていたけれど、今はキリストによって神と隔たりがなくなったよ。人との隔たりも取り除かれたよ。」ということです。イスラエルのエルサレム神殿には「隔ての壁」と呼ばれる庭と庭を仕切る壁があります。人々はその身分に応じての庭にしか入ることができないのですが、その中に「異邦人の庭」というものがあります。私たちのように非ユダヤ人は異邦人の庭を越えて他の庭に入るならば死刑に処せられるという石碑も残っているくらいです。ユダヤ教の律法を守っていない異邦人は穢れているから、聖い神の近くに立ち入ってはいけないという理屈だそうです。でもよく考えると随分おかしな話です。「穢れた異邦人」が本当に神に近づくことが許されていないのならば、どうして神殿に「異邦人の庭」なんていうものがそもそも存在するのでしょう。最初から「異邦人の庭」を造らなければよかったのです。……このことは、旧約聖書が実は異邦人の救いにも言及していることを示唆しています。旧約聖書には、要所要所に神様の救いがユダヤ人にとどまらず全世界に及ぶことを示している箇所が登場します。つまり、神の救いは最初から異邦人にも開かれていたのです。けれども人は、律法を用いて人との間に序列を設けたり、それを破ると死刑を宣告するまでになっていってしまいました。これは、神様が望まれた神の民の姿から逸脱した姿です。だから神様は、人が字義通りにしか守ろうとしない律法ではなく、キリストを人々に与えられたのです。キリストによって、イスラエルと異邦人に敵意がなくなり、「一つの新しい人=教会」を造り上げていく。このことが書かれているのが、11節から18節です。
そして満を持して19節で、いよいよ「神の家族」と言う言葉が登場します。ギリシャ語で「家族」とは、「生活共同体」や「同じ親を持つ者」という意味があります。対して「親戚」と言う言葉は、「血のつながり」や「私的な関係」を表すニュアンスを持っていました。初代教会の人々は、寝食や経済を共にした共同生活をし、同じ父なる神を礼拝していましたから、現実的にも霊的にも「神の家族」という表現が、彼らにピッタリな言葉だったのです。
その一方で、21~22節には「主の聖なる神殿となります。」「神の住まいとなるのです。」といったように、未来形で書かれていることから、「教会は神の家族ではあるけれど、まだ完成に至っていない。」「教会を完成させるために気を付けるべきことがある。」ということを私たちは示されているようにも思います。たとえば、現代社会において「家族」と言う言葉は非常に重い意味で使われることがあります。支配や抑圧の記憶を呼び起こすことすらあるこの言葉を用いるとき、私たちが「神の家族だから」と境界線を越えてしまったりするならば、この言葉は本来の「互いを支え合う愛の意味」を失い、「侵入」や「干渉」といった支配的な関係を生み出すことにもなりかねません。ボンフェッファーは「家族のように」という言葉の裏に、道徳的な圧力や親密さの強制、境界線の無視などが潜んでいる場合、本物のキリストの交わりを壊す危険性があると警鐘を鳴らしています。「神の家族」とは本来、「よそ者だったものが迎え入れられる恵み」や「隔てを取り除く福音の力」を象徴するものでした。この豊かな意味を失い、「神の家族」という言葉が独り歩きしてしまわないように、私たちは配慮をもってこの言葉を用いていきたいと願います。
最後にもう一つ、私たちが忘れてはならないことは、今私たちに「神の親戚」に近い現状があったとしても、神様は私たちを「私の子」と呼び、「家族」と見てくださっているということです。家族がいるということは、孤独ではないということです。私たちが孤独であったから、その孤独から救い出すため、イエス様は私たちの孤独を引き受けてくださいました。十字架は、神の子であるキリストが神から引き離され、神からの断絶を意味する死を引き受けるという出来事でした。本来私たちが受けるこの孤独と断絶の苦しみを、私たちを神の家族へと導くため、キリストが担ってくださったのです。私たちは、私たちを「神の家族」にするために、父なる神様と御子イエス・キリストが、このような愛と犠牲を払ってくださったことを深く覚えたいと思います。私たちは今はまだ欠けのある家族ですが、この神様が私たちを、やがて完全な「神の家族」としてくださいます。この希望を覚えつつ、今日も与えられている教会とその友を、心から尊敬し、愛していきたいと願います。(篠﨑千穂子)