カンバーランド長老キリスト教会

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  • 2025年6月1日「塀の中の三種の神器」エフェソの信徒への手紙3章1~13節

    エフェソの信徒への手紙3章は「このようなわけで、私パウロは、あなたがた異邦人のためにキリスト・イエスの囚人となっています。」という言葉から始まります。意味深な言い回しです。「囚人」という言葉自体、一般的にあまり良い印象の言葉ではありませんから、もし私たちが「私、キリスト・イエスの囚人なんです。」とどなたかに言ったとして、その方が「私もキリストを信じたい」と言ってくれるかどうか…かなり微妙です。ではパウロがあえて、こんな誤解されやすい言葉を用いたのはどうしてなのでしょうか。

    パウロのいた牢獄は、彼がローマで自費で借りた家だったと言われています。彼はここで軟禁されていたようです。一般的な牢獄のイメージとは違う緩やかな投獄生活です。けれども、囚人が失うと言われる3つのものを、彼は彼なりに失ってきました。それは、「自由」「社会的信用」「居場所」です。異邦人伝道のために旅を続けていたパウロが、比較的自由な家とはいえ軟禁されていたことは痛手だったはずです。またたとえ無実であっても囚人への社会の目は厳しいものがありますし、その偏見の目はパウロの家族にも向けられたかもしれません。エフェソ書には直接書かれていませんが、彼の晩年の手紙であるテモテの手紙二には、多くの人がパウロのもとを離れていったことが悲し気に書かれています。偉大な伝道者パウロでさえ、孤独は深い痛みだったのです。このようにパウロは囚人として多くのものを失ったはずですが、このエフェソ書には悲壮感が全くみられません。むしろ、生き生きとした喜びや力強さすら感じられます。彼はなぜこれほど生き生きとしていられたのでしょうか。

    先ほど申し上げた通りパウロは、囚人として、「自由」「社会的信用」「居場所」を失いましたが、3章1節から13節には、「囚人となったからこそ得られたもの」が3つ登場します。「神の恵み」「神の力」「福音に仕える者とされること」です。

    まず1つ目の「神の恵み」は、1~2章でも繰り返し語られていることです。神様の恵みは、私たちが良いことをしたご褒美に与えられるのではなくて、まだ神様を知らないうちから先立って注がれていました。パウロはこの恵みが、ユダヤ人のみならず異邦人である私たちにも等しく注がれることを語っています。囚人となった後も、この恵みを思い起こすことで、彼は神に近づき生きる力を得ているのです。2つ目の「神の力」…「力」とはギリシャ語で「能力」とも訳される語です。私たちはパウロのように頭脳明晰で雄弁でエネルギッシュで、特別な能力がなければ、神の働きに加わることはできないと思いがちです。けれども聖書は、どんな能力も神から与えられた贈り物で、私たち一人ひとりに人生のステージごとにそれぞれ必要なものが備えられると語ります。自分では役に立たないと感じられるようなものであっても、神様はその謙遜さをも喜び、用いてくださいます。3つ目は「福音に仕える者とされること」です。彼はユダヤ教ファリサイ派のエリートとしてキリスト者を迫害する者でした。彼にとって「福音に仕える者とされた」ことは、真理を知った喜びや神に選ばれた誇りであると同時に、大きな重荷でもあったと思うのです。自分が手にかけてしまった信仰者の顔が、思い出されたかもしれません。神様はそんなパウロについて、アナニアを通して、「私の名のためにどんなに苦しまなくてはならないかを、彼(パウロ)に知らせよう。」(使徒9:16)と語ります。彼は、この預言のとおり神のために苦しむようになった自分を「キリストの囚人」と呼ぶのです。

    パウロは「自由」「社会的信用」「居場所」を失いましたが、「神の恵み」「神の力」「福音に仕える者とされること」を得ました。これによって、彼は生き生きと信仰を告白できるようになったのです。これらはパウロだけに与えられたものではなく、私たちキリスト者に共通して与えられているものです。本日の説教題は「塀の中の三種の神器」とさせていただきました。「三種の神器」とは、天皇の正統性を示す三つの宝物を指します。塀の中のパウロが与えられた「神の恵み」「神の力」「福音に仕える者とされること」は、私たちが神の子であることの正統性を裏付ける宝物のように私には思えました。私たちは、この「三種の神器」のような三つの宝物を神様からいただいて「神の子」としていただいていますが、だからといって、祈った人が目の前ですぐに救われるとは限りません。それは、救いが私たちの力で成し遂げられるものではなくて、神の主権と愛にのみ依っていることの証でもあります。けれども、この3つの宝物を惜しみなく与えてくれる神様は、私たちが神様に信頼することを望まれます。たとえ今は収穫を目にすることができなくとも、やがて完成した神の国で、「あの人は、私が祈っていたあの人だ……」と喜びの再会を果たすことができるかもしれません。神様が私たちの小さな力をそのように用いてくださることに期待をしながら、「神の恵み」「神の力」「福音に仕える者とされること」を大切にしながら、私たちの道を主に委ねて歩んでいきたいと願います。(篠﨑千穂子)

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