カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2025年8月3日「聖書における百人隊長」マタイによる福音書8章5~13節

    この物語の主役は百人隊長です。この節はメシアと異邦人の関わり合い方を示す大切な役割をしています。彼はローマの士官であり、百人を統率する隊長と呼ばれる異邦人でした。類似聖書箇所には、マタイによる福音書8章5〜13節とルカによる福音書7章1〜10節があります。「誰の癒しを依頼したか」について、マタイは「私の子」とし、ルカは「しもべ(奴隷)」としています。またこのときの百人隊長の居場所について、マタイは「イエスの側にいた」としていますが、ルカは「家にいてユダヤ人の長老を使いにやって頼んだ」とあります。このように、同じ内容と思われる聖書箇所であっても、表現が異なることがあります。マタイ(ユダヤ人で初期の12弟子の1人であり、徴税人であった)による福音書の対象者は主にユダヤ人であり、ルカ(ギリシャ人、医者、パウロの理解者弟子)による福音書の対象者は主に異邦人でした。私たち読者は聖書の著者や書かれた背景にも注意が必要です。

    それでは、何故イエスは百人隊長の信仰に驚いたのでしょうか。1つ目の可能性は、自分は穢れた異邦人(ユダヤ人から見た時)であるためユダヤ人であるイエスを迎え入れる資格がないし、さらに自分が罪深い者であることを謙遜に気づいた隊長であったからと考えられます。2つ目の可能性は、百人隊長は軍隊生活で部下に命令を与えることが何を意味するかを知っており、自分も上官を持つ身として、命令を受けることが何を意味するかを知っていたからではないでしょうか。軍隊においてそうであるなら、預言者・救世主・神の子と言われているイエスの言葉は中風ぐらいなら何の苦もなく癒す力を持っているに違いないと単純な子どものような心を持っていたのでしょう。彼はただイエスが言葉を発するだけで子の病気が全快することを確信していました。彼は、まるで子どもが自分の父の力に信頼するように、イエスには何でも出来ると信じたのです。この愚かなほどに単純な心が、イエスを驚かせ、喜ばせました。

    これに対してイエスはこのように言いました。「百人隊長のような信仰を持つ者はユダヤ人の中に、誰にもいない。選民イスラエルこそ持つはずであった信仰を、今やこの異邦人である百人隊長が代わって持つようになった。こんな信仰の篤い人々が東から西からやって来て神の宴に着くのだ。御国の子であるユダヤ人たちは不信仰のゆえに外の暗闇に放り出されて後悔の臍を噛むであろう。」これは異邦人にとっては慰めの言葉でしたが、ユダヤ人にとっては恐ろしい呪いの言葉でもありました。

    イエスの福音を見ていると、本人の信仰によるものではなくて他人の信仰によっても癒されることがあると私たちは知ることができます。前節の規定の病を持った人も百人隊長の子どももユダヤ人からは穢れた異邦人として排斥された者であるにも関わらず癒されました。神の祝福はユダヤ人か否かに依らず、信仰の秤に依っているのです。丈夫な者に医者はいりません、医者のいるのは病人です。すなわち、もし私たちに子どものような単純な信仰があれば私たちがいかなる者であろうともキリストによって救われるのです。しかも遥かに隔たった所からも、キリストは病を癒し救われるのです。これがイエスの福音です。マタイはユダヤ人に福音を伝えることを目的としていました。そのマタイにとって、子どものような単純な信仰があれば誰でもキリストの福音に与ることが出来ることを聖書に記載したのは大事なことでした。

    では、現代の私たちは、異邦人としてどう行動できるでしょうか。イエスを子どものような単純な心で信じることが出来るでしょうか。現代では直接イエスにお会いすることは困難です。また、奇跡を体験することも困難かもしれません。けれども、聖書を通して信じる心を持つことは出来ます。またその心で全ての隣人を愛することは出来るはずなのです。そしてそのことを具体的に行動に移し、実行すること…三位一体である神様を信じ、聖霊の働きをいつも感じさせて下さいと祈り続けることが我々クリスチャンの出来ることではないでしょうか。私が受洗したとき、石塚牧師から「三位一体の神様を信じますか?」と、まず尋ねられました。「難しい。」と答えたところ、「信じられないなら洗礼を辞めてもよいですよ。」と言われました。15歳からキリスト教を理想の信仰と思っていましたので、キリスト教に飛び込んでみたい思いがありました。「飛び込んだ後に信じられるはずだ。」と思い、洗礼を受けました。それから5年経った今はどうでしょうか?イエス様に直接会うことはできませんし、その声を聞くこともありません。けれども、あくまでも子どものような心で信じ抜くことがクリスチャンではないかと思うのです。(めぐみ教会長老・小手川益夫)

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