今年の5月から、めぐみ教会ではエフェソ書の連続説教を行っています。それを話すと、友人から「エフェソなんて読んでるの?」と少し嫌そうな顔をされることがあります。曰く、「『妻は夫に従いなさい』って書いてあるからモヤモヤする。エフェソ書嫌い」というのです。気持ちは理解できますが、少し立ち止まって考えてみてほしいのです。パウロが命をかけて伝えたイエス・キリストは、社会的弱者や迫害される人々を大切にされた方です。パウロ自身もガラテヤ書では「男も女もない、キリストにあってひとつ」と述べています。それでも、エフェソ書では現代の私たちにとってモヤモヤする文章が書かれています。今日はその理由を考えていきましょう。
友人たちがモヤモヤするのは、22節「妻は夫に従いなさい」、23節「夫は妻の頭だからです」という言葉のせいでしょう。新約聖書の原語には「従う」は「服従する」「屈服する」といった意味もありますが、これは当時のヘレニズム社会を反映した訳語でもありました。当時の社会は家父長制度で、家長である夫や父親が家庭や社会で大きな権限を持っていました。妻に対する戒めは、22節「主に従うように、夫に従いなさい」、23節「夫は妻の頭だからです」とありますが、21節には「キリストに対する畏れをもって互いに従いなさい」とあります。「畏れ」は恐怖ではなく尊敬の意味です。つまり、妻も夫もお互いに尊敬し合い従うことの前提で、妻には家庭と社会に責任を持つ夫を信頼して尊重することが求められているのです。
一方、夫に対する戒めはさらに重要です。25節では「キリストが教会を愛し、自らを捧げたように妻を愛しなさい」とあります。「愛する」とは、アガペーの愛、無条件で自己を犠牲にして人格を尊重する愛です。当時、妻は夫の財産とみなされていましたから、この戒めは非常に画期的でした。
けれども、実は同様の戒めは旧約聖書にも既に書かれているものです。なぜパウロは旧約聖書ですでに語られていた戒めを、エフェソ教会にあえて伝えたのでしょうか。一つは、エフェソ教会が異邦人中心であり、旧約聖書の価値観を知らない信徒が多かったこと。もう一つは、エフェソ書自体が教会について語られた書簡であり、教会を健全に運営するために各家族が健全であることが必要だったからです。当時は、教会活動を含めた社会活動のすべてが家族単位で行われていたため、夫がリーダーとして敬われ、妻が無条件に人格的に尊重されることが教会の健全に直結していました。
現代の私たちにとって、教会活動は必ずしも家族単位ではありませんし、独身者も多くいます。ですから、エフェソ書5章21節から33節を読むとき、単に「夫婦の戒め」として受け取るのではなく、「教会で共に生きる私たちはどう生きるべきか」と考えることが大切です。つまり、共同体の中でリーダーとして立つ人を敬いその決断を信頼し、守られるべき立場の人を無条件で人格的に尊重することが求められています。
愛することについて、ある牧師が「愛することとは想像することだ」と言っていました。私たちはどうしても感情的に好きになれない人がいます。しかし、その人の立場や考えを想像することは可能です。例えば、自分を責めているように聞こえる人や感情の起伏が激しい人、距離感が難しい人、自分勝手な人なども、状況や背景を想像すれば、必ずしも悪意があるわけではないと理解できるかもしれません。「もしかしたら」と想像することは簡単な事ではありませんが、その努力をしてみてもいいのではないでしょうか。私たちはイエス様を通して無条件に愛され、赦された者だからです。
エフェソ書5章31節には「人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体となる」と書かれています。もともとは夫婦が互いにかけがえのない存在であることを示す言葉ですが、教会に集う私たちに当てはめるなら、互いにかけがえのない存在として支え合う関係を意味します。すなわち、すべての神の民が互いに敬い、従い、愛し合うことを期待されているのです。
私たちは本当にお互いを敬い、従い、愛しているでしょうか。相手を想像し、人格を大切にできているでしょうか。「あの人は私のことを想像してくれない」と思う方がいたとしたら、その考えを持つ自分自身が相手を想像していないのかもしれません。神様はすべての人を愛し、隣人が愛し合うことを願っておられます。最後に、エフェソ書を通して神様が語りかけておられることを心に留め、本日の説教を終わりにいたしましょう。
エフェソの信徒への手紙5章33節「あなたがたも、それぞれ、(妻を)自分のように愛しなさい。(妻は夫を)敬いなさい。」(篠﨑千穂子)