カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2025年9月14日「やぎさんゆうびん」エフェソの信徒への手紙6章21~24節

    皆さんは、「やぎさんゆうびん」という歌をご存じでしょうか。「しろやぎさんからお手紙着いた、くろやぎさんたら読まずに食べた、仕方がないのでお手紙書いた『さっきの手紙のご用事なぁに』」というものです。しろやぎさんとくろやぎさんのお手紙は、両者共に読む前に食べてしまうから永遠に気持ちが伝わらない…そんなちょっとおかしくて、聞き方によっては少し切なくなる歌です。私はこの歌を聴くと、「私たちも聖書をそんなふうに読んでいないかな」と思うことがあります。例えば、聖書を読んでも先入観で、「どうせこういう結末だ」と決めつけたりして、「神様が今日の私に語っているみことば」と受け取らない…そうなると、それは読む前に手紙を食べてしまって、あとから「さっきの手紙のご用事なぁに」と聞くようなものです。本日お読みしたエフェソ書の「結びの言葉」は「どうせただの挨拶でしょ」と私たちが「やぎさんゆうびん化」させてしまいがちな箇所かもしれません。今日はこの箇所を丁寧に読んで、この結びの言葉に込められている意味を探っていきましょう。

    この箇所には「ティキコ」という名前が出てきます。ティキコはエフェソ書で唯一登場する固有名詞で、この手紙をエフェソ教会まで届けた配達人です。そしてパウロは彼のことを「主にあって愛するきょうだいで、忠実に仕える者」という大げさな表現で紹介しています。なぜでしょうか。当時の手紙は、回覧され朗読されるのが普通でした。配達人は、手紙の朗読者としての役割も担っていました。貴重な羊皮紙に書ける言葉は厳選されていましたし、パウロは囚人でしたから手紙も検閲されたかもしれません。配達人には手紙を朗読する際、書かれていない部分や削除された部分を補足説明することが求められました。また、強い迫害の時代でしたから配達者に危険が及ぶことも予想されました。複雑で危険な事情が絡み合う中、パウロがこのティキコを大げさに紹介したことは、それだけティキコが信頼されていることの証であり、またこの手紙が「どうしても届けたい手紙であった」ことの証でもあるでしょう。そして、そこまでしてパウロがこの手紙をどうしても届けたかった理由を22節は「あなたがたが…心に励ましを受けるため」と説明します。人は自分がしてほしいことを、愛する人にもしてあげたいと思うものです。もしかするとパウロ自身も、エフェソ教会の人々と恵みを確かめ合うことで、励まされたい、慰められたいと願っていたのかもしれません。励まし慰め合うことは、伝道者や信徒の立場を越えて、教会に集う者にとって大切な関係です。このようにエフェソ教会を励ましたパウロは、その恵みが、「きょうだいたち(クリスチャン)」から「すべての人(全人類)」にまで及ぶようにと23~24節で祈っています。神の恵みを自分が受け取り、教会で分かち合い、世界に届けたいという願いが、パウロとエフェソ教会の見えない交わりの中で育まれていったことが、ここからわかります。

    今週の説教題は「やぎさんゆうびん」とさせていただきました。先ほど申し上げた通り、私たちは聖書を「やぎさんゆうびん化」させてしまうことが時々あります。聖書って分厚いし、専門用語だらけで読むのに骨が折れますから、つい「どうせこういうことが書いてあるんでしょ」とまとめてしまいたくなる気持ち、私にもわかります。でも少し考えてみていただきたいのです。このエフェソ書だけでも、獄中のパウロが高価で手に入れにくい羊皮紙を入手するところから始まり、エフェソ教会の様子を聞き、手紙を書き、検閲や妨害に耐え…色々な人の命の危険を冒しても、どうしても伝えたいことを届けようとした手紙でした。エフェソ書ひとつだけでも、エフェソの人々に届くのにこれだけの困難があったのです。聖書の時代から長い長い時と場所を越えて、現代日本に生きる私たちの手元にこの聖書が届くまで、どれだけの犠牲やリスクがあったでしょうか。そこまでして届けたい神様の思いはどれだけ深いものなのでしょうか。それを思うと私たちが、聖書を都合のいいように解釈したり、「どうせ書いてあるのはこれくらいだろう」と軽く扱ったりすることは、していいことではないと思いませんか?私たちは聖霊の力をいただいて、聖書に書かれたことを読むとき、あらゆる色眼鏡を外し、今日の自分へ語られたものとして受け止めたいと思います。「この世界を造られた神様が…私を最高に大事だと言ってくださる方が、私に今日この言葉を送ってくれている。」そういう姿勢で臨んでいきたい。そんなふうに、共にみことばに真剣に向き合い続けるめぐみ教会でありたいと願うのです。(篠﨑千穂子)

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