ガラテヤの信徒への手紙5章は「キリスト者の自由」という見出しで始まる。その表現は、宗教改革者マルティン・ルターの著書の題名にもなっている。では、私たちはキリスト者として自由であろうか。信仰生活の中で「~してはいけない」「~しなければならない」といった規則に縛られているという印象を持たれることが少なくない。牧師である私自身も、「お酒を飲んでもいいのか」「ラーメンを食べるのか」といった素朴な質問を受けることがある。そこには、「宗教=不自由」という社会的な先入観があるのかもしれない。
しかしパウロは、「キリストは私たちを自由にされた」と力強く語る。その自由とはまず「律法からの解放」である。キリスト者はもはやモーセ律法の細かな規定に縛られる必要はない。にもかかわらず、当時のガラテヤ教会には「割礼を受けねばならない」という教えが忍び寄り、多くの人々が惑わされていた。パウロはこれを厳しく非難し、「割礼を受けるなら、キリストは何の役にも立たなくなる」とまで言う。すなわち、再び律法に頼ることは、キリストの恵みを無効にし、信仰者の根源を失うことになる。
律法主義の担い手であったパウロ自身が、キリストによる一方的な恵みと解放を経験した。それは理論ではなく、ダマスコ途上で彼自身が啓示として受けた生々しい体験だった。だからこそ、彼の福音理解には情熱と確信がある。「義」とされるのは行いではなく、キリストの真実によってであり、その真実の中で私たちはすでに神の前に「良し」とされている。
この自由は放縦ではなく、愛の実践を可能にする自由である。パウロは「この自由を肉の機会とせず、愛をもって互いに仕えなさい」(5:13)と語る。ここに、自由と他者との関係が密接に結びついていることが示されている。自由とは、ただ好き勝手に生きることではなく、仕えることに自らを差し出す自由なのだ。
ルターもこのパウロの言葉に学び、「キリスト者はすべてのものの主人であり、誰にも隷属しない。同時に、すべての人の僕であり、誰にでも仕える」と記した。これは自由の逆説である。律法に縛られず、誰からも強制されず、しかし愛に突き動かされて隣人に仕えること。それこそが「信仰によって働く愛」(5:6)であり、律法の成就である。
パウロの言う信仰は、アガペー(無償の愛)によって命を吹き込まれた信仰である。神の愛に根ざし、その愛に突き動かされて他者を愛する。そこにはもはや割礼の有無など関係ない。重要なのは、私たちのうちに神の愛が証されているかどうかである。
先月まで放送されていた朝ドラ『あんぱん』でも、「自由」が大きなテーマとして描かれていた。戦時下で自由を奪われる中、主人公の嵩(たかし)くんが銀座の華やかな様子を描くデッサンを制作した。指導教官がその絵を見て「時代に逆行している。いいじゃないか」と語る場面が印象的だった。
キリスト者の自由もまた、時代の価値観や流れに逆らってでも、キリストの恵みと愛に生きることである。その姿は、時代遅れではなく、むしろ時代に抗う自由の証しである。
キリストは私たちを自由へと解放された。この自由の中で、キリストの愛に留まり、愛によって実を結ぶよう招かれている。分断と疑心暗鬼が満ちる今こそ、愛によって働く信仰が必要とされている。
(唐澤健太・国立のぞみ教会牧師)
