本日お読みしたマルコによる福音書12章18~27節は、私にとって思い出深い箇所です。神学生のころ、神学生仲間のYくんが結婚しました。喜びにあふれた彼は旧約聖書の雅歌を説教したりするほどでしたが、ある日この箇所を読んで沈んだ顔で言いました。「復活のときは、めとることも、とつぐこともないって書いてあるよね。じゃあ御国で僕は奥さんと赤の他人になるの?そんなの嫌だ!」そのとき私は軽く笑って流しましたが、今回改めてこの箇所を与えられ、「神は本当にそんな冷たいことを言われるだろうか」と思いました。
サドカイ派の人々がこの質問をしたのは、復活を信じていなかったからです。彼らはモーセ五書しか聖書と認めず、死者の復活を否定していました。イエスが「三日目によみがえる」と語るのが気に入らず、民衆の前で論破して恥をかかせようとしたのです。彼らはイエスにこう質問しました。「七人の兄弟がいて、長男の妻が子どもを残さずに亡くなった。弟たちが次々にその妻をめとったが、誰も子を残さずに死んでしまった。復活のとき、この女は誰の妻になるのか?」私たちには奇妙に聞こえますが、当時のユダヤ社会には“レビラート婚”という制度があり、家の名を絶やさぬために弟が兄嫁をめとる習慣がありました。サドカイ派はこの制度を持ち出して、復活の教えを嘲笑したのです。けれどイエスは静かに答えられます。「復活のときには、めとることも嫁ぐこともなく、天の御使いのようになるのだ。」イエスは「天の御使いのように」と続けています。御使いとは、神に人間よりも大変近い存在を表す言葉です。つまりイエスが言われたのは、「復活のとき、人は神との間に何の隔てもなく、完全に結ばれた関係になる」ということでした。「めとることも嫁ぐこともない」とは、夫婦関係がなくなるというよりも、レビラート婚のような悲しみをともなう関係がもう存在しない、という意味でしょう。レビラート婚では、子を産めなかった女性が「呪われた女」とされ、社会から排除されることもありました。何度も弟たちに嫁ぎ、子も得られずに生涯を終えた女性たち――その現実を思えば、「復活の時誰の妻か」など、彼女たちにとってどうでもよいことだったでしょう。むしろそんな議論そのものが、彼女たちを傷つけるものでした。しかし、もし彼女たちの耳にイエスの言葉が届いたなら、どれほど慰められたでしょう。「あなたたちは聖書も神の力も知らない。神は死んだ者の神ではなく、生きている者の神だ。」この言葉は、皮肉な議論で人を踏みつける者たちへの静かな抵抗であり、名もなき痛む人への「神はあなたを『生きている者』と呼ばれる」という宣言でした。誰かがあなたを「生きるにふさわしくない」と言っても、イエス・キリストはそうは言われません。神の言葉を人を傷つけるために使う者には抵抗を示され、痛む者には「あなたは生きるにふさわしい。私はあなたと共にいる」と語られるのです。
説教の冒頭で話したYくんの問い――「御国では妻も夫もなくなるの?」――に戻りましょう。イエスが言われたのは、「神の国では結婚関係が消える」ということとはおそらく違うのだと思います。完成した御国で夫と妻が再会しても誰かわからないとか、妻と夫がすれ違っても知らんぷりをするとか、そういうことでは多分ないでしょう。むしろイエスは、「神の国では、レビラート婚のような不条理や痛みがなくなる」と語られたのです。この地上では、本来祝福であるはずの結婚や家族の関係にさえ、支配や搾取や孤独といった痛みが入り込みます。けれどイエスが再び来られて完成する神の国では、それらがすべてなくなる。神との関係に隔てがなくなり、人と人との間にも支配も孤独もない――それが完成した神の国です。そこでは、誰も「誰かのもの」ではなく、すべての人が「神のもの」として愛されます。復活とは、そのような関係に生きる命へと招かれることなのです。そして私たちは、この未完成の地上にあっても、神との関係が少しずつ回復される中で、人との関係にも支配や孤独が取り除かれていく経験を与えられています。復活の時や天使の姿がどうであるか、私たちは詳しく知らされていません。けれど、聖書と人生の中で、神がどれほど豊かに愛してくださる方かを、私たちはすでに感じています。だからこそ、不条理や痛みの中にも、神の力と愛を信じ、心から私たちを愛してくださる主に信頼して、この一週間を歩んでまいりましょう。(篠﨑千穂子)
