「金持ちの男」の物語はとても有名ですが、読むと「イエス様は意地悪だ」と悲しく感じる方もいるようです。私の友人も、「イエス様はできもしない全財産の売却を求めて、この男性に永遠のいのちを与えたくなかったのでは」と悲しんでいました。確かに、男性に不可能な要求をし、さらに周囲に向かって「財産のある者が神の国に入るのはなんと難しいことか」と語るイエスの姿は、意地悪に見えるかもしれません。しかし、このエピソードはマタイ・マルコ・ルカすべてに記されています。3人の福音書記者が「イエスの意地悪さ」を主張するために書いたとは考えられません。だからこそ、私たちは先入観をいったん外して、この箇所を読み直す必要があります。
まず、この男性がどんな人物だったか確認しましょう。彼は単なる「金持ち」ではなく、「金持ちの青年」「金持ちの議員」とも呼ばれ、裕福で社会的地位が高く、律法を熱心に守る、誇り高いユダヤ人でした。また「永遠のいのちを“受け継ぐ”には何をすればよいか」と尋ねていることから、選民意識の高い人物であったと思われます。つまり彼は、「私は律法を守り祝福されている。だから永遠のいのちは当然受け継げるはずだが、念のため確認したい」という態度でイエスに近づいたと言えます。それに対してイエスは唐突に戒めを挙げ、青年は「それらは子どものころから守っています」と答えます。そこでイエスは「あなたに欠けているものが一つある。財産を売り払い、貧しい人に与え、そして私に従いなさい」と語りました。現代の私たちにとっても全財産の売却とは無茶な要求ですが、当時のユダヤ人にとって富は「神からの祝福の証」でした。つまりこの男性にとって財産を捨てることは「神の祝福を捨てること」だったのです。選びの民であるユダヤ人にとって、これは生きる中で最も恐ろしい要求であったと言えるでしょう。だから彼は顔を曇らせて去っていきます。これだけ見ると確かにイエスは意地悪に見えます。
しかし重要なのは、イエスこそがこの男性の求める「永遠のいのち」そのものであったということです。男性は、ユダヤ人だけを政治的に救うメシアを待ち望んでいましたが、イエスはそんな小さな救い主ではなく、「神の国は近づいた」と告げて世界に来られた神ご自身でした。永遠のいのちは目の前にいたのに、男性は自分のメシア像や「神の祝福とは富である」という既成概念に縛られ、イエスが何者かを理解できなかったのです。しかし、この男性を笑って終わることはできません。私たちも「良いこと=祝福、悪いこと=呪い」と決めつけ、神の恵みを自分の価値観で測ってしまうことがあるからです。自分に都合の良い出来事だけを祝福と呼ぶ私たちは、この男性と大して変わりません。だから彼を責める資格はありません。それでも私たちには大きな希望があります。21節に「イエスは彼を見つめ、慈しんで言われた」とあります。この男性がどんなに理解が足りなくても、イエスは彼を愛しておられました。「全財産を売り払え」は意地悪ではなく、彼に最も深く福音を刻むための働きかけだったのかもしれません。もし男性の「どうしたら神の国を受け継げるか」という問いかけに、イエスが「私を信じることだよ」とだけ言っていたら…永遠の命を受け継ぐことだけを求めた彼は「なるほど!」と上機嫌で帰り、すぐに忘れてしまったことでしょう。けれども男性は自分に与えられた祝福の証を捨てろと言われました。そのことに顔を曇らせ、悩みながら立ち去るしかありませんでした。その悩みは、彼の心に強烈なインパクトを与えたのではないでしょうか。この男性は、イエスという、自分の心を曇らせた救い主のことを簡単には忘れなかったはずです。やがて、その人が十字架で死んだと聞き、復活の噂を聞いたとき、「あ!あのときの…」と、イエスと交わした言葉のひとつひとつがよみがえった…彼に福音が届く瞬間は、このようにしてやってきたのかもしれません。
それが実際どうだったかは聖書に書かれていませんから、これはひとつの仮説です。しかし一つだけ確かなのは、イエスがこの男性を心から愛していたということです。だからこそ、彼が一度はつまずいても、最終的に本当の永遠のいのちに導かれるように、最善の方法で語られたのです。イエス・キリストは、今日私たちにも同じように、私たちにとって一番理解しやすい方法で、一番福音を受け取りやすい形で介入してくださる方です。「私と共に生きなさい。あなたの価値観よりも、私の適切さを認めなさい」私たちを愛して、こう迫るイエスの言葉を、私たちは意地悪だと切り捨てるでしょうか。それとも、「今は言っていることが分からない」と悩みながらも、神の適切さを認めることができる自分に変えられることを祈り求めるでしょうか。(篠﨑千穂子)
