皆さんは「商標法」という法律をご存じでしょうか。登録商標、ブランドのロゴなどを無断で使うと罰せられる法律です。今日のマルコによる福音書を読む中で、私はこの法律を思い出しました。13章には「メシアを名乗る者が現れる」とありますが、これは神の国の“商標”を勝手に使うようなものではないか…と思えたのです。
「ここにメシアがいる」「あそこにいる」と言う人が出てくる、と21節にあります。当時は“自称メシア”や“担ぎ上げられたメシア”が本当に多く現れていた時代でした。イスラエルは長い戦乱と他国支配の中で傷つき、「今こそ救い主が現れるはずだ」という期待が高まっていました。熱い思いから立ち上がった人もいたでしょう。しかし神様は「気をつけなさい」と警告されます。なぜなら、自分を神とすること、他者を神とすることは、必ず人を破滅に導くからです。このマルコによる福音書が書かれた数十年後、ユダヤではバル・コクバという人物が宗教指導者たちから「きっと彼こそメシアだ」と担がれて反乱を起こし、20〜30万もの命が失われました。彼の名は「星の子」という意味でしたが、後に「嘘の子」というあだ名で残るようになりました。日本史の天草四郎も同じです。救い主として担ぎ上げられ、結果は大きな悲劇でした。歴史の中で「救い主」を名乗ったり担がれたりした人々は、ほとんどが悲惨な結末を迎えていますし、その周囲の人々も苦しみました。神の国の商標法は、神の名を無断使用した者に罰を定めてはいません。イエス様はただ「気をつけなさい」と言われます。しかし歴史は、この警告を破った人々がいかに残酷な結果を迎えたかを示しています。だからこそ私たちは、自分や他者を神としないよう注意深く歩む必要があります。
では、具体的にどう気をつければよいのでしょうか。私は本文から三つのポイントを受け取りました。第一に、「災害を過度に再臨のサインと決めつけない」。24~25節には太陽が暗くなり星が落ちるとあります。大きな災害が起きるたび、「今度こそイエス様が来られる」と言う方々がいますが、イエス様がこの世界に来られてから二千年の間に人間は無数の災害を経験してきました。むやみに「確定」してしまうと偽メシアを生みやすくなります。「そろそろかもしれない」と備えることは大事ですが、断定しないこともまた必要です。第二に、「本物は必ず分かる形で来られる」。26節には「人の子が大いなる力と栄光を帯びて雲に乗ってくる」とあります。比喩も含むでしょうが、「これがキリストだ」と世界中の人がわかる方法で来られることは確かです。だから、それまではカリスマ性を誇る人や「これこそ救い主だ」といった噂に振り回されないようにしたいと思います。第三に、「本物を見続けること」。イエス様が語られた再臨のイメージは、すべて旧約聖書からの引用です。つまり「聖書という本物を知っていれば偽物を見分けられる」ということです。自分を神ともせず、他者を神ともせずに歩むためには、「本物のメシアはどんな方か」「神とはどんな方か」を知る必要があります。そのために聖書を読み続け、「本物を見極める力」を養うことが勧められています。
最後に、この箇所を今の私たちが読む意味を考えてみましょう。マルコによる福音書は降誕物語を描かず、受難の記事を非常に詳しく描いているのが特徴です。そして偽メシアの警告が、受難物語の直前に置かれていることは非常に興味深いことです。この福音書の読者は迫害のただ中にいた人々でした。クリスマスという“過去の喜び”ではなく、“今の苦しみ”と“未来の希望”を迫害の時代を生きた人々に同時に示す――それがマルコ福音書の特徴です。キリストの受難も、読者たちが受けていた迫害も、「希望へ向かうプロセス」とされています。その中で聖書はこう語ります。「自分や他者を神としてしまう悲劇を歩むのではなく、本物の神を見上げて歩みなさい」と。再臨や終末を考えると、私たちは時に「もう世界は終わるのだから」と投げやりになりそうになります。しかし神の国は“この世界と断絶して”ではなく、“この世界と地続きに”完成します。だからこそ私たちは、今日という日を大切にし、自分を神とせず、他者を神とせず、本物の神を見上げながら歩む必要があります。宗教改革者ルターの言葉とされる有名な一節があります。「たとえ明日世界が滅びるとしても、私は今日リンゴの木を植える。」たとえ明日イエス様が来られても、たとえ教会が終わりを迎えるとしても、私たちは今日、神の民としてなすべきことをするのです。皆さんにとって、今日“神の民としてなすべきこと”とは何でしょうか。(篠﨑千穂子)
