カンバーランド長老キリスト教会

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  • 2025年12月7日「逃げ上手の信仰者」マルコによる福音書7章1~13節

    今日お読みしたマルコによる福音書7章1~13節は、私にとって少し思い出のある箇所です。神学生の頃、ある聖書会でこの「コルバン」の場面が読まれ、準備のない私は説明できず冷や汗をかいたことがありました。だからこそ今日は、改めて「コルバンとは何か」、そしてここで神様が語られることを皆さんと確かめたいと思います。

    まず舞台と登場人物を確認すると、場所はガリラヤ周辺。登場するのはイエスと弟子たち、そしてエルサレムからわざわざ120キロも歩いて来たファリサイ派と律法学者たちです。彼らが言いたかったのは、「なぜ弟子たちは昔の言い伝えに従わず、汚れた手で食事をするのか」ということでした。もちろんここでの「手洗い」は保健衛生の問題ではありません。当時は旧約の祭司の清めの規定が一般人にも広げられており、それを守ることが信仰の証のようになっていたのです。イエスの側がそれを守っていないことに、彼らは強い不満を抱いていました。ところがイエスは彼らに「偽善者」と厳しい言葉を返し、「コルバン」の問題を持ち出します。ここから、コルバンとは何かを見ていきましょう。

    「コルバン」とは本来「神への献げ物」という意味です。しかし時代が下るにつれ、「自分の手から離れたもの」「他人のために使わなくてよいもの」という意味に変質していきました。本来は親を敬い支えることが当然とされていた社会で、「このお金はコルバンですから親には使えません」と言えば、誰も反論できなくなる。実際には神に献げていないのに、責任逃れのために「神の名」を利用することが横行していたのです。イエスが異を唱えたのは、このような神を盾にして自分を正当化する卑しい態度でした。けれども、こうした“コルバン的な態度”は、私たちの中にも潜んではいないでしょうか。「教会のため」と言いながら自分の都合を通そうとするとき、聖書の言葉を用いて自分の判断を正当化するとき、神の名を権威付けに使ってしまうとき…こういうとき信仰の言葉は自分のための道具になってしまいます。イエスが「偽善者」と呼ばれたのは、まさにその姿勢に対してでした。「偽善者」という言葉はギリシャ語では「解釈する者」という意味をも持っています。聖書を自分の都合のいいように解釈すれば、誰でも偽善者になりうるということがここから分かります。どんなに敬虔に見えても、中心にあるのが“自分”なら、それは神を欺く行いです。

    ここで思い起こしたいのは、この福音書を書いたマルコ自身もまた「逃げ上手な信仰者」としての痛みを抱えていた可能性があるということです。マルコはパウロの第一次伝道旅行に同行しましたが途中で離脱した人物です。そのことが原因でパウロとバルナバは激しく対立してしまいました。マルコ自身も深い痛みと後悔を抱えたはずです。だからこそ彼は、イエスが「コルバン」について語られた出来事を、どうしても書き残したかったのではないでしょうか。神の名を使って責任から逃れることが、結局は自分や周りを傷つけるのだという重い実感を持っていたのかもしれません。

    ここまでのまとめとして、コルバンとは――神の名を使って責任逃れをし、自分の行いを正当化することです。そして私たちは、神の名が都合よく使われる闇の世界を生きています。私たち自身もまた、神の言葉を利用してしまうことがあります。しかしその闇のただ中に、イエス・キリストは来てくださいました。今日はアドベント第二主日です。イエスは私たちに厳しく「偽善者」と語りつつも、本当に大切な戒め――「神を愛し、人を愛する」――という生き方を示してくださいます。愛の形は一つではなく、真実を語る愛も、事実を伏せる愛も、距離をとる愛も、寄り添う愛もあります。そのため、「これが愛だろうか、それともコルバンだろうか」と迷うこともあるでしょう。しかしキリストは、迷う私たちを「信仰者」として受け止め、慰め、励ましてくださるお方です。このアドベント、逃げ上手になりかねない私たちに寄り添い、「それでも愛を示してごらん」と招いてくださる主を、共に待ち望みたいと思います。(篠﨑千穂子)

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