本日お読みしたマルコによる福音書1章1〜8節は、不思議な始まり方をしています。「神の子イエス・キリストの福音の初め」と高らかに宣言されているにもかかわらず、肝心のイエスは9節まで登場しません。思わず、「福音の初めって言っているのに、イエスはどこにいるの?」と突っ込みたくなるほどです。では、マルコが語ろうとした「福音の初め」とは何だったのでしょうか。それは、イエスが現れる以前に、神のために“場を整えた人々”の一歩から始まっていたのではないか――そのことを、今日はご一緒に見ていきたいと思います。
マルコ福音書は、まず洗礼者ヨハネを「はじめの一歩」を踏み出した人として描きます。ヨハネは、罪の赦しを得させるための悔い改めの洗礼を宣べ伝え、人々に洗礼を授けていました。そしてユダヤ全地方、エルサレムの住民までもが、彼のもとへ集まってきたと記されています。ヨハネの呼びかけに応え、人々もまた「はじめの一歩」を踏み出したのです。けれども、この「はじめの一歩」は、決して華やかなものではありませんでした。ヨハネは、祭司ザカリアとエリサベトの間に、年老いてから与えられた一人息子でした。本来なら父の跡を継ぎ、神殿祭司として安定した道を歩むことが期待されていたはずです。けれども彼は、荒れ野で預言者として生きる道を選びました。預言者の道が、迫害や孤独と隣り合わせであることを、両親もヨハネ自身もよく知っていたでしょう。その選択には、不安と悲しみ、そして深い葛藤が伴っていたはずです。洗礼者ヨハネの「はじめの一歩」には、『痛み』がありました。
次に、ヨハネのもとへ向かったイスラエルの人々の一歩を見てみましょう。
彼らが洗礼を受けたヨルダン川は、その祖先が約束の地へ入る際に渡った、「再出発の象徴」でした。しかし同時に、「東」は穢れや不安が入り込む方角と考えられていた土地でもあります。人々は、その東にあるヨルダン川へ向かいました。
それは、これまでの価値観を一度脇に置き、神がなしてくださった救いの歴史を思い起こす行為でした。イスラエルの民の「はじめの一歩」には、恐れを越えて踏み出す『勇気』が必要だったのです。
さらに、マルコ福音書には描かれていない、もう一つの「はじめの一歩」があります。それは、マリアとヨセフの歩みです。いいなずけのあるマリアが身ごもったことは、当時の社会では命に関わる重大事でした。姦通罪で石打の刑に処せられる危険が非常に高かったからです。ヨセフもまた、マリアの命を守るために離縁を考えましたが、その後神の声に従い、彼女を妻として迎え入れます。けれどもこの選択は、ひとつ間違えばヨセフの社会的信用を失う危険を伴うものでした。それでも二人は、神の言葉に信頼し、一歩を踏み出したのです。マリアとヨセフの「はじめの一歩」には、神の声に聴き従う『覚悟』がありました。
マルコ福音書はイエスの誕生物語を語らない福音書です。そしてこの1章で、イエスをすぐに登場させなかった理由は、ここにあるのではないでしょうか。イエスが現れる前に、神のために場を整えた人々の一歩――それこそが「福音(良き知らせ)の初め」だった、と伝えたかったのではないか…私はそう考えています。
神の良き知らせは、人々がそれぞれの状況の中で選び取った、小さな一歩を通して広がっていきました。今日を生きる私たちもまた、人生のさまざまな場面で「はじめの一歩」を前にしています。不安の中での選択、価値観の問い直し、誰かと共に歩む決断、信仰と現実の間での揺れ――。「私には痛みを乗り越える勇気も覚悟もない。」とうろたえることもあるでしょう。けれども神は、そんな私たちを切り捨てるような冷たい方ではありません。何かを成し遂げるのは私たちではなく、神ご自身です。私たちは、神が起こしてくださる波に、そっと身を委ねるだけでよいのです。その波は、私たちを薙ぎ倒すためではなく、前へと運ぶためにあります。神は、私たちの「神様を信頼したい」という小さな願いを大きく受け止め、「義」と呼んで喜んでくださる方です。この神に信頼し、それぞれの場所で、今日もまた「はじめの一歩」を踏み出していきたいと願います。(篠﨑千穂子)
