今日お読みした聖書は「マニフィカート」、マリアの讃歌と呼ばれる箇所です。イエスを身ごもったマリアが神を讃えて歌った、信仰的で美しい言葉です。けれども正直に言うと、わたしはこの箇所にどこか居心地の悪さを感じてきました。清らかで模範的で、まるでお花畑にいる「信仰者としての勝ち組」の歌のように聞こえて、自分とは関係のない歌のように思えていたのです。今日は、そのように感じてしまう私…そしてそう感じておられるかもしれない皆さんに、神さまが何を語っておられるのかを共に聴いていきたいと思います。
マリアの讃歌の前に描かれるのは、彼女が親戚エリサベトを訪ねた出来事です。ナザレからユダの山里までは約140キロあったと言われています。妊娠初期の少女が一人で旅するには、あまりにも危険で過酷な道でした。それでもマリアは旅立ちます。未婚女性の妊娠が石打の刑…つまり死に直結する時代、村にとどまることも、旅に出ることも、どちらも危険なことでした。マリアの親たちは苦渋の中で「よりましな危険」を選び、娘を送り出したのではないか…マリアのいう「天使の告知」を完全には信じ切れなくても、神の業である可能性を否定しきれず、エリサベトのもとに希望を託した――そんな葛藤があったのではないかと思われます。
また、そんなマリアを迎えるエリサベトは、祭司の妻という立場を持ちつつも長年不妊に苦しみ、社会の底辺に置かれてきた女性でした。その彼女が、マリアを心から祝福します。「救い主の母であるあなたが、私のところに来てくれた。」この言葉を受けたとき、マリアはようやく、孤独な旅が終わったことを感じたのではないでしょうか。この出会いが、マリアの唇に讃歌をもたらします。不安と恐れが消えたからではありません。神がこんな自分にも目を留め、守り、導いてくださった――その驚きと信頼が言葉となったのです。そしてこの歌は、個人の喜びを超え、世界への希望へと広がっていきます。力ある者が引き下ろされ、低くされた者が高められる。神は、見捨てられた人々の側に立つ方だと歌われます。
この歌を聴いたエリサベトにとっても、マリアの讃歌は深く響いたことでしょう。自分もまた、忘れられていなかった。神は約束を覚えていてくださった――その確信を、エリサベトはこの歌から受け取ったからこそ、この歌は彼女の口を通して誰かに伝えられ、そしてやがて福音書記者の手を通して聖書の言葉として残されていくことになりました。エリサベトがこのあと生む洗礼者ヨハネは、やがて悲劇的な最期を迎えることになる人物です。もしエリサベトがその知らせを聞いていたなら、そのとき彼女の心に流れたのは、あの若いマリアの震えるような歌声だったかもしれません。人生を説明してくれる言葉でもなく、悲しみを消してくれる魔法でもなく、それでも歩き続けるために、何度も思い出される歌。エリサベトにとってマリアの歌声は、息子を得た時だけでなく、息子を失ったときにもなお、耳に残る静かで確かな歌声だったのではないでしょうか。マリアの讃歌は、勝利の歌ではありません。すべてがうまくいった人の歌でも、悲しみを消す魔法でもない。むしろ「それでも神は見ていた」「それでも私は忘れられていなかった」と、自分に思い出させるための歌です。マリアはこの後、大きなお腹を抱えて、冷たい視線の待つ村へと戻っていきました。それでも神は共におられました。マリアは何度もこの歌を口ずさんだことでしょう。
私たちにとっても、この讃歌は同じように響きます。世間はクリスマスではしゃいでいるけれど、孤独や不安、不公平や理不尽は私たちの心を襲います。それでも神は目を留めておられる――そのことを私たちはいつでも思い出したいと思うのです。完璧な信仰からほど遠い私たちにも、神は誠実であり続けてくださる。このクリスマス、私たちはその神の誠実さにより頼んで歩むことを選び取りたいと思います。クリスマスおめでとうございます。神が私たちに誠実を尽くすため、キリストをこの世界に送ってくださいました。(篠﨑千穂子)
