カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2025年12月28日「太陽がいっぱい」マタイによる福音書2章1~12節

    「太陽がいっぱい」という映画があります。恵まれない出自の青年が、大富豪の御曹司を殺して彼になりすまし、不安から罪を重ねていくという陰鬱な物語です。私はマタイによる福音書2章を読んでいるとき、この映画をふと思い出しました。自分が「本物ではない」という不安が、人をどこまで追い詰めるのか――その点で、両者は深く響き合っているように思えたのです。

    マタイ2章の時代、ユダヤはローマの属国でした。その統治を任されていたのがヘロデ大王です。彼はローマから権力を与えられた、いわば「雇われの王」でしたが、決して無能ではありませんでした。国を豊かにし、神殿を再建し、政治的にも軍事的にも優れた手腕を発揮した人物でした。一方で、彼は極端な猜疑心と残虐性を併せ持ち、自分の地位を脅かすと感じた者を容赦なく排除しました。その背景には、彼自身の出自への強いコンプレックスがありました。ヘロデはユダヤ教に改宗していましたが、血統的にはイドマヤ人との混血でした。血統を重んじるユダヤ社会の中で、彼は「正当なユダヤ人」「正当な王」と認められなかったのです。彼自身も、そのことを痛いほど分かっていたでしょう。だからこそ、「ユダヤ人の王が生まれた」という知らせを聞いたとき、彼の心にまず生まれたのは怒りではなく、不安でした。

    聖書は、この不安を抱いたのがヘロデだけではなかったことも伝えています。エルサレムの人々もまた動揺しました。この時代、「自称メシア」が現れては消え、そのたびに弾圧と粛清が繰り返されていたからです。人々は解放を期待すると同時に、ヘロデの苛烈な反応を恐れていました。不安は静かに、しかし確実に広がっていったのです。

    やがてヘロデは、博士たちを送り出し、「見つかったら知らせてほしい」と言います。博士たちは疑うことなく幼子イエスを拝みますが、夢のお告げによってヘロデのもとへは戻りません。だまされたと知ったヘロデは、不安を怒りへと変え、幼子虐殺を命じます。しかしそのとき、イエスの一家はすでにエジプトへ逃れていました。

    この物語は、一見すると「本物の王イエスが守られ、偽物の王ヘロデが失敗する」という痛快な構図にも見えます。しかし聖書は、もっと深い現実を描いています。ヘロデの残虐さの背後には、彼自身の痛みがあり、また彼を拒み続けたユダヤ人たちにも、捕囚という歴史的な痛みがありました。誰か一人を単純に悪者にできる状況ではなかったのです。痛みが痛みを生み、連鎖していく世界が、そこにありました。

    それでも神は、ヘロデ王家を見捨ててはいませんでした。ヘロデ王の息子アンティパス、孫アグリッパ一世、曾孫アグリッパ二世――彼らはそれぞれ、暴力や過ちを犯しながらも、神の言葉に触れ、心を揺さぶられる経験をしていることを、新約聖書は示しています。神は、ヘロデの残虐な行いを見過ごしはしなかったけれども、それゆえに彼らを見捨てることも決してしない方でした。神は彼らに関わり続けておられたのです。

    このことは、現代を生きる私たちにとっての福音です。私たちにも、どうしても近づけない人、関係を保つことが難しい人がいるからです。それでも私たちはキリスト者として、そういった人たちと距離を取ることに「愛が足りないのでは」と罪悪感を覚えてしまうこともあります。しかし神は、イエスの一家に「ヘロデの事情を理解してあげてほしい。話し合えばきっとわかるから。」とは言わず、「逃げなさい」と語られました。距離を取ることは、愛さないことと同じではありません。神は、私たちに退路を用意しつつ、私たちが近づけないその人にも、確かに手を差し伸べておられます。「あなたが近くにいられなかったあの人を、私は愛し、守っている」――そう約束してくださる神がおられるのです。ヘロデ王家と共にあり続けた神は、今もなお、私たち一人ひとりと、そして私たちが近づけない誰かと共におられる、インマヌエルの神です。この神に信頼し、この1年を感謝し、来たる一年を委ねて歩みたいと願うのです。(篠﨑千穂子)

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