エズラ記は、少し意外な始まり方をしています。「エズラ記」という名前がついているのに、なかなかエズラ本人は登場せず、物語はペルシアの王キュロスの言葉から始まります。このころイスラエルの人々は、まことの神ではないものに頼り、神さまが何度も語られた警告にも耳を傾けませんでした。その結果、神さまはバビロンという大国を通して裁きを下されます。これがバビロン捕囚です。国は滅ぼされ、人々は無理やり外国へ連れて行かれ、約50年もの間、祖国に帰ることができませんでした。やがてバビロンに代わって力を持ったのが、キュロス王率いるペルシア帝国です。キュロス王はイスラエルを支配する中で、二つの命令を含む布告を出しました。一つは「エルサレムに帰って神殿を建て直しなさい」。もう一つは「帰らない者は、そのための資金を提供しなさい」というものです。一見すると、とても寛大で優しい言葉に聞こえます。しかし注意深く聞くと、「労働か、お金か、どちらかを差し出しなさい」という、どこか支配的な響きも感じられます。この布告を、イスラエルの人々はどのように受け止め、どのように行動したのでしょうか。
エズラ記1章は、「主がキュロス王の霊を奮い立たせた」と語ります。キュロス王自身も「天の神、主が」と、まるで信仰告白のような言葉を口にしています。これだけを見ると、彼がイスラエルの神を信じていたかのように思えてしまいます。しかし、歴史的にはそう単純ではありません。19世紀に発見されたキュロス・シリンダーと呼ばれる印章には、ペルシア帝国が支配していたさまざまな民族に対し、「自国に帰り、それぞれの神の神殿を建て直しなさい」と記されています。つまり、この布告はイスラエルだけに特別に向けられたものではなく、ましてや信仰告白でもなかったということがここから明らかになります。キュロス王にとってこの布告は、民の心をつかみ、反乱を防ぎ、安定した支配を行うための外交政策でした。力で抑えつける「北風」ではなく、好意によって従わせる「太陽」の政治――洗練された「優しい支配」だったのです。
では、その布告を聞いたイスラエルの人々はどう受け止めたのでしょうか。エズラ記の著者は、これをエレミヤの預言の成就として受け取りました。「七十年の後、あなたたちは必ず帰る」という神の約束が、異邦の王を通して実現したと受け止めたのです。人々はこの言葉を聞いて、出エジプトの出来事を思い起こしたかもしれません。バビロン捕囚の中で、人々は自分たちの罪を悔やみ、神を見失い、絶望しました。しかし預言どおり、しかも想定より早く、帰還と神殿再建の道が開かれました。困難が消えたわけではありません。それでもこの布告は、人々に「前へ進む勇気」を与えたのです。
では、この物語は現代の私たちに何を語るのでしょうか。私がこの箇所から強く示されたのは、「神さまは、信仰を持つ人だけでなく、まだ信仰を持たない人をも用いられる方だ」ということです。私たちは時に、「クリスチャンは他の人とは違う」「選ばれた存在だ」という思いを、無意識に抱いてしまいます。しかし神さまは、イスラエルとの関係回復という極めて重要な第一歩を、あえて異邦人であり信仰者でもないキュロス王に委ねられました。私たちは普通、人に何かを委ねるときは信頼した相手を選ぶものです。つまりこれは、神さまが先に信頼を示してくださる方である、ということの表れではないでしょうか。キュロス王は賢く、政治的に洗練されていましたが、憐れみから行動したわけではありません。本当に優しかったのは、そんな彼さえも用い、信頼を先に示された父なる神でした。だからこそ私たちは、自分の不完全さを抱えたままでも、神の前に立つことができます。そして、信仰から遠く見える人々をも、「神に信頼されている存在」として、尊敬をもって向き合う必要があるのではないでしょうか。尊敬とは、何でも受け入れることではありません。教会の秩序や役割には線引きが必要です。しかし同時に、「神さまは、私だけでなく、まだ信仰を持たないあの人をも信頼し、用いようとしておられる」と感謝することはできるはずです。教会の内も外も、すべて神の世界です。そのことを味わいながら、私たちはこの一週間を歩んでいきたいのです。(篠﨑千穂子)
