カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2026年1月18日「番町皿屋敷」エズラ記1章5~11節

    私は神学生時代に、「あなたの説教は希望がないのよね」と言われたことがあります。結構ショックでした。やはり牧師に向いていないのだろうかと悩んだとき、指導教官から、「あなたの性格や人生すべてをひっくるめて神様が召してくださった。責任は神様が取ってくださいますよ」と、また友人からは、「私達が自分で希望を生み出せるなら、キリストが十字架にかかる意味はなかったよね」と言われました。神様が下さった分を淡々と受け取ればよい、そのことを思わされた出来事でした。

    さて、今日のエズラ記1章5節から11節は、そんな私には「番町皿屋敷」のように読めました。祭具が細かく数えられて並ぶ箇所を読んでいると、「一つ足りない!」と叫びたくなるような、どこか悲壮な空気を感じてしまったのです。この箇所には、帰還を決めた人々のために周囲の人たちが自発的に献げ物をしたこと、奪われていた神殿祭具が返されたこと、そしてそれらを携えて人々が帰っていく様子が描かれています。一見すると「良かったよね」で終わる話ですが、列王記や歴代誌を見ると、第一神殿にはもっと多くの祭具があり、返された五千四百はその一部にすぎなかったかもしれません。「一枚足りない!」と感じても不思議ではない状況でした。しかし6節には、「周囲の人たち」が帰還者を「支援した」とあります。この言葉は「力づけた」「精神的に強くした」という意味を持っています。興味深いのは、帰還を決めたのが南ユダのリーダー格の人たちだったにもかかわらず、その人たちが名もなき周囲の人たちによって精神的に支えられた、ということです。保証のない道を歩む彼らを励ましたのは、誰にも強制されない自発の献げ物でした。これは、現代の教会に生きる私たちにも重なることだと思わされます。

    また返された祭具は、バビロン捕囚時に偶像礼拝の中で使われてしまったという「いわく」がありました。そんな器が、再び神を礼拝するために用いられる日が来たとき、人々は「たったこれだけしか戻らなかった」ではなく、「かつて敵の手に汚された器を、神がもう一度ご自身のものとして取り戻してくださった」と受け取ったのではないでしょうか。「残された祭具(=恵み)は、たったこれしかない」ではなく、「こんなにも多くの祭具(=恵み)が残された」。そう受け取ることができたなら、なんと幸いなことでしょうか。

    私たちはときどき、目に見える「足りなさ」に心が持っていかれてしまいます。実は私も、最近こんなことがありました。東京合同小会で、めぐみ教会のこれからの厳しさを話し、「考えると胃が痛くなる」と言った私に対して、めぐみ教会のある長老が、「私は胃が痛くならない。神様が何をしてくださるのか楽しみです」とおっしゃったのです。眩しかった。番町皿屋敷のように足りないものを数える自分を恥ずかしく思いました。でも同時に、自分を卑下しないようにもしようと思いました。冒頭で申し上げた通り、神様は私の人格や背景も含めて召してくださったはずだからです。番町皿屋敷的解釈をする自分をも、許してあげていい。人格や賜物の異なる私たちが与えられている共同体だからこそ、互いの欠けを補い合いながら進んでいけるのだと、改めて思わされました。

    エルサレムへの帰還を選んだ人たちは、失われたものではなく、残されたものを数えながら歩き出しました。それは、彼らがポジティブだったからではありません。不安はたくさんありましたし、名もなき人たちの支援によって精神的に助けられる必要がありました。でもその支援や返却された祭具を通して、神がすでに動いておられることを知らされたのです。私たちも、人生や教会や将来を考えるとき、「足りないもの」「失われたもの」「もう戻らないもの」に目が向く日があります。でもエズラ記1章は語ります。神は、私たちがまだ何も始めていないところで、すでに人の心を動かし、道を整え、必要なものを返してくださっている、と。だから、ポジティブな人は「神が何をしてくださるか楽しみ!」と歩めばよいし、慎重な人は「失ったものもあるけれど、それでも神は、ここから始めてくださる」と確かめながら歩めばいいのです。キリストが十字架にかかってくださったから、私たちにはすでに希望が与えられています。自分の中の希望の強さや弱さなんて、あてにしなくていい。希望を与えてくださる神の確かさに目を留めていく者とされたいのです。この一週間の始まりの朝、私たち一人ひとりが、「足りない」と思っているところからではなく、「すでに与えられているもの」から、もう一度歩み出すことができますように。神様は今日も、すでに私たちの帰る道を用意してくださっています。(篠﨑千穂子)

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