本日の箇所、エズラ記2章1~2節には、バビロン捕囚からエルサレムへ帰還した人々のリーダーの名前が並んでいます。正直、一読しても、「だから何…?」と感じてしまうような、地味な記述です。「でもこれだけ名前が羅列してあるからには、何か意味があるはず」と思い、一人ひとりの名前を調べてみたのですが、はっきりと出自が分かるのは、最初に挙げられているゼルバベルとイエシュアくらいでした。中でも私の目を引いたのはゼルバベルです。彼は、イエス・キリストの系図にも登場する、ダビデ王家の子孫、しかも最後の王エコンヤの孫でした。それにしても不思議です。彼が王家の一員なら、エズラ記の著者がそのことを強調して記してもよさそうなものです。当時の人々は「約束の地」「神殿」と並んで「ダビデ王家」を大事にしていたと聞きますから、ゼルバベルの出自を記したなら、人々のモチベーションも上がると思うのです。いわば「王の帰還」なのに、こんなに地味な記述がなされているのは、なぜなのか…私は三つの理由が考えられると思いました。
一つ目は、エズラ記2章が物語というより、帰還者の公式名簿としての性格をもっているからです。名簿には、名前はあっても、その人の詳しい背景までは書かれません。二つ目は、歴代誌にはすでにゼルバベルが王の孫であることが書かれており、それが周知の事実だった可能性です。三つ目は、この時代の人々の意識が、王よりも宗教的指導者へと移っていたことです。捕囚後、王のいない時代を生きた人々は、ダビデ王家への期待を徐々に失っていき、宗教的指導者にリーダーとしての役割を求めていた可能性があることを、ある歴史神学者が指摘していました。
こうした理由から、ゼルバベルの出自はエズラ記では強調されなかったのでしょう。ただ、これはあくまで人間の側からの説明です。では、神様はどう思われたのでしょうか。聖書は人の言葉で書かれていますが、それ以上に神の言葉です。神様がなぜ「ゼルバベルの出自を強調しないこと」を選ばれたのか…その視点で読む必要があります。これまでのことを踏まえて考えてみました。神様が「王の帰還」をあえて地味に描くことを許されたのは、「人々の期待がダビデ王家そのものではなく、やがて来るメシアへと向けられることを望まれたから」ではないでしょうか。
聖書が語る本当の王は、数百年後に生まれるイエス・キリストです。この方は、分かりやすいカリスマや権力をもつ王ではありませんでした。貧しい大工の家に生まれ、人々の偏見の目にさらされながら生きられた、「王らしくない王」です。しかし、この方こそが、人と神との関係を回復する、まことの王でした。ゼルバベルの出自が語られなかったエズラ記2章は、そのことを静かに指し示しているのように思うのです。
今日、めぐみ教会は創立33周年を迎えています。私たちが開拓期の牧師や長老たちの献身への感謝と敬意をもつことは、とても大切です。しかし、もし過去の栄光や特定の人に過度に依存してしまうと、神様ご自身との生きた関係が見えなくなることもあります。「あの先生の時代はよかった」「この人がいないと教会は成り立たない」――そんな思いは温かく切ないものですが、それが強くなりすぎると、人の器に目が向き、神様への信頼が薄れてしまうこともあります。私の中にも同じような危険があることを覚えつつ、だからこそ自戒を込めて申し上げたいと思います。「信頼しているあの人よりも、この人よりも、まず神様ご自身に信頼することから始めてみましょう」と。過去の恵みを感謝しつつも、それに縛られず、神様が今、何をなさろうとしているのかに耳を澄ませること。それが、ゼルバベルの時代から続く信仰の姿勢であり、33年目を迎えためぐみ教会に求められている歩みなのではないでしょうか。王らしくない王、私たちと神との関係を回復してくださる本当の王、イエス・キリストが再び来られるその日まで、私たちは、ある時は教会のかたちを変えながら、ある時は礼拝のあり方を変えながらも、このめぐみ教会で神を礼拝することを喜び続けていきたいのです。(篠﨑千穂子)
