今日お読みした聖書では、手紙の書き手であるパウロが感謝の祈りを献げるところから始まります。私は祈りと聞くといつも思い出すことがあるのですが、それはある壮年クリスチャンの方が、「祈りは他力本願みたいで苦手だ」と言っておられたことです。社会や家族のために長いこと一生懸命働いてこられた方には、こういう感想を持つ方が結構多いように感じます。確かに私たちのお祈りは願い事ばかりになりがちですし、ここでのパウロの「エフェソの人たちが聖霊の力によって、神様の力がどれほど大きいかを知ることができるように」という祈りも、考え方によっては、「そんなのエフェソの人たちが熱心に教会に関わって、しっかり聖書を学べば自然とわかっていくんじゃないの?」と思えなくもありません。それではパウロが、ここまで神様依存で他力本願な祈りをしているのはどうしてなのでしょうか。
パウロがここまで神様依存で他力本願な祈りをしている理由を考えるため、パウロがどんなメッセージを伝えているのかを確認していきましょう。20節、21節でパウロは、「神様がどんな方か」そして「キリストがどんな方か」を語ります。神はキリストをよみがえらせた方で、キリストは、「支配、権威、権力、権勢」といったすべての「力」の上に立つ存在なのだと語ります。この「支配、権威、権力、権勢」は、似た印象を持ちますが、厳密には少しずつ意味が違う言葉です。ここでこれらの言葉を分けることでパウロは、「キリストは、世界の初めから存在して、世界を治める力を持ち、超自然にも物質的な事にも力をふるうことができ、すべてを支配できる方である」ということを語っているのです。もしこんな力を、世の権力者が持っていたらと思うとゾッとしますが、この力を持っているのは他でもないキリストです。キリストは「勝ち組」や「特別な人」だけを大切にする方ではなく、「その人がその人だから」という理由ですべての人を愛し、選び出してくださる方です。だから私達は安心してすべてを委ねることができるのです。この手紙を書いたパウロは、ファリサイ派のエリート中のエリートでした。今でいえば「超キャリア組」のような人です。そもそもファリサイ派は信仰を行動で表すことを大事にするグループですから、パウロにとって努力することは当たり前、誰かの力に頼って生きるなんて考えたこともなかったかもしれません。けれども、そんなパウロが主張するのです。「神は良いことをする前の私たちを選んでくれた。だから、この方により頼んで生きていこう。自分の力ではなく、聖霊によって希望が与えられることを知っていこう。」
私の友人が、ある時お父さんからこんなお小言(?)を言われていました。「お前の学費、ほんとに大変だったんだからな!勘弁してくれよ!」。ハラハラしながら見ていると、彼女は満面の笑みで「ありがと、パパ大好き♡」と言ったのです。するとお父さんは何とも言えない幸せそうな顔をしていました。彼女を見て、「愛されることを受け入れるって、こういうことなんだなぁ。」と思わされました。「信仰は愛されっぱなしになることだ。」と私の恩師が言っていたことがあります。私の友人が親の愛情を卑屈になったり遠慮することなく「ありがと、パパ大好き♡」と全面的に受け取った時のお父さんの顔を見たとき、「神様も私たちが神様に愛されっぱなしになることを受け入れるとき、こんなふうに喜んでくださるのでは。」と思いました。神様は、もしその力を人間が持ったら大変なことになるほどの、ものすごい力を持った方です。だから私たちは、「そんなすごい方に、努力で解決できそうなことを頼るなんて…」と思うこともあるかもしれません。けれどもパウロは、神様に頼りっきりになることを私たちに勧めています。それは、かつての「努力でなんでもやってきたパウロ」とは全く違う姿です。自分の力では神様を本当の意味で理解できないと知ったパウロは、ただ神様に愛されっぱなしになることを受け入れて、その愛をどっぷり味わう生き方を選びました。そして、この神様が与えてくれたキリストこそが私たち教会の頭であると22節で語ります。神の愛を存分に受け、聖霊の助けを受け入れて、私達はキリストを頭とした教会を建てあげていくことができるのです。努力は決して悪いことではありません。けれども、神様は「ありがと、パパ大好き♡」と満面の笑顔を見せる愛された娘のように、神様の愛をどっぷりと受け入れることを願っておられる方です。だから私たちは、神様に愛されていることを信じて、安心してキリストに従いつつ、このめぐみ教会を共に築いていきましょう。神様の絶対的な力と愛が、私達を支え、導いてくださるのですから。(篠﨑千穂子)