先週はエフェソ書5章で「妻と夫」の関係を見ましたが、今日はその続きとして「子と親」「奴隷と主人」について考えます。皆さんは「ハラスメント」を経験されたことがあるでしょうか。私が新卒で入社したころ、まだこの言葉が出始めたころで、「これはセクハラかも」「モラハラかな」と思うことがありました。当時の上司は「最近の若い者は何でもハラスメントと言うけど、これは違う」と言いましたが、今日の聖書を読むと、なぜか私はあのときの上司の言葉を思い出すのです。「両親に従いなさい」「主人に従いなさい」とありますが、もし両親や主人が不当な人ならどうでしょうか。またこの箇所は、「信徒は教会のリーダーに従わなければならない」と解釈される場合もあります。聖書解釈には幅がありますし、他の教会の牧師の聖書解釈について私は言及できる立場でもありません。けれども聖書解釈は教会に与えられた業ですので、私たちめぐみ教会ではこの箇所をどう読むか…そのことを皆さんと考えていきたいと思うのです。
エフェソ書6章ではまず前章の21節で「キリストに対する畏れをもって、互いに従いなさい」と伝えられています。ここで使われる「従う」とは単なる服従ではなく、「キリストを畏れかしこんで尊敬するように互いを大事にし、愛し合う」ということが前提です。また、この章ではまず社会的に「仕える立場」にある人々に戒めが与えられ、次に「権威を持つ立場」にある人々へ戒めが続きます。つまり、この章の中心テーマは「仕えること」なのです。
6章1~3節では「父と母を敬いなさい」とあります。これは十戒の引用です。当時の家父長制度においては父親の権力は絶大でしたから「父を敬いなさい」は普通の戒めでした。けれどもここでは母親も敬うべきとされていて、これは非常に画期的なことでした。また、親はいつか年をとって社会的に弱い立場に追い込まれます。この章ではそんな弱い立場となった親を敬うと、「幸せになり、長く生きる」と書かれています。これは文字通りの長寿ではなく、弱者を大事にすることで得られる幸せを意味しています。4節では、親に対してしつけ(神の民として相応しい歩み方を教えること)とさとし(危険を正しく指摘し安全な道に導くこと)を子どもたちにせよと教えます。ただし、子どもの尊厳を踏みにじるようないい方はダメだ…とも語っていることにも注意が必要です。
5~8節では奴隷と主人について語られます。エフェソ書は奴隷に「真心をこめて仕えよ」「人の機嫌に左右されず喜んで仕えよ」と教えます。真心で喜んで仕えることができれば、日々の仕事は苦役ではなくなるからです。「奴隷根性」とは人の評価に縛られて仕えることですが、奉仕は本来神様の恵みに応えるためにするものです。評価や権利の主張を目的にしてはならないのです。喜んで仕えることは、搾取されることではなく、神と人のために生きる喜びを私たちに与えてくれます。9節では主人への戒めが記されています。「奴隷に対して、主に仕えるように敬いなさい。脅してはいけない。主は人を分け隔てしない」とあります。当時は奴隷の人格は認められず、主人の裁量次第でした。エフェソ書は奴隷制度の是非を問うのではなく、弱者の扱いや立場のある人の責任を説いています。実際、後の時代には多くの主人が奴隷を自由にしましたが、それは教会の中で対等な関係や愛を学んだ延長線上でのことでした。
エフェソ書は教会について論じられている書ですから、これは単に「子と親」「奴隷と主人」の仲良しマニュアルではありません。この箇所は、教会において全ての人が敬われるべきであると説いています。また、信徒は無条件にリーダーに従うべきということを伝える書でもありません。むしろ教会はあらゆるハラスメントを許さないという確固たる戒めを与えています。神の前ではすべての人が敬われるべきなのだということを、どんな立場の人にもストンと理解できるように、立場別に語っているのです。子への戒めは「弱い立場の人を大事にすれば、自分も幸せになれる」と、親への戒めは「過ちや危険を正しく指摘して導くことは大切だが、相手を怒らせる言い方はしてはいけない」ことを、奴隷への戒めは「神や人に喜んで仕える」ということを、そして主人への戒めは「指導する立場の人を敬い、自分の立場を誇示しないこと」を教えています。愛することを学び、実践することは簡単ではありません。けれども私たちは神様に助けを求めながら、愛し合い仕え合う者へと変えていただくことができます。キリストは、私が愛することができないあの人と、あの人を愛することができない私のために、死んで復活してくださったのですから。(篠﨑千穂子)