カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2025年9月28日「あ、祈りの点検やらなきゃ」ミカ書6章8節、マルコによる福音書11章20~26節

    みなさん毎日お祈りはしているだろうか? 教会であれ、おうちであれ。

    心静かに祈ることは、自分の信じている神様とお話しする、時には対話することかも知れない。声に出さずとも、心の中で。まさに密室の祈りであろう。

    それに、祈ることは語りコトバだけではなく、歌の形でもできる。賛美歌がそうだ。例えば、「讃美歌21」にある頌栄27番「父・子・聖霊のひとりの主よ・・」とか、46番の「すべての人よ、主をたたえよ、すべての人よ、主をたたえよ」など、なんと簡潔に畳み込まれた祈りの言葉だろう。覚えやすく心に沁みる。

    ところで、あなたが捧げる祈りの点検はどうなっているのか。点検?そう。車の点検だとオイルチェックをしたり、タイヤの圧を調べたり、ブレーキの音を確認したりする。私たちの祈りも同様。時に応じて、今を見つめる必要な点検かも知れない。

    かつて私が教会の長老になりたての頃、礼拝の司式を任されるたびにパリパリに緊張して、頭半分真っ白のまま、「聖霊の照らしを求める祈り」をなんとか捧げた記憶がある。その時の私はというと、神様に祈るというより、ちょっとでも会衆受けの良い言葉ばかりを探していた。「人に聴かせる、納得してもらえる、耳に聞こえの良いコトバ」のオンパレード!独りよがりな祈りだった。そんなものが神様に届くわけなんてない。そこにあるのは計算された自分のエゴだらけだったのだから。思い出すのも恥ずかしく、反省している。

    今、祈る時には、私は身を正し、ミカ書6章8節の言葉を務めてそらんじる。  

    “人よ、何が善であるのか。そして、主は何をあなたに求めておられるか。それは公正を行い、慈しみを愛し、へりくだって、あなたの神と共に歩むことである。” 

    「神と共に歩める」のは私の理想とするところ。途中でズッコケたら?もちろん、神様が抱っこしてくれるはずだ。あのマーガレット・パワーズさんの『あしあと』の詩のように。

    「祈りを点検しよう」の標題を掲げたが、これは、希望が丘教会で長年、牧会され、愛され、2005年に天に召された故瀬底正義牧師が残してくれた言葉だ。日本中会宣教研究所から出された「カンバーランド宣教研究紀要三号」に掲載されている瀬底牧師の1993年の説教「私たちの祈りの点検をしよう」がそれだ。先生は言う、『私たちの祈りは、神の絶大な力に信頼するよりも自分の状況ばかり、問題ばかりを神に訴える。苦しさばかりを訴える。祈りは神の力、神の不思議な計画と一つになることが目的だから、私たちは神の絶対的な力に向かって祈り確信する、神は私を愛して下さると信じて感謝することだ』と定義されている。

    本日の箇所、マルコ11章22節の中ほどから主イエスは弟子たちに言われる。《神を信じなさい・・・ だれでもこの山に海の中に入れと言い、そのことは成就すると心に信じるならそのとおりになるであろう。なんでも祈り求めることはすでにかなえられたと信じるならそのとおりになるであろう》というイエス様の言葉。これが信仰の中心だと瀬底牧師は力説する。『神を信じる、あるいは信じないのも私たちの自由。ただ、主イエスは、神を信じる者は祈りの生活において力強い証しを持っている』と。さらに『祈ったとおりになるという経験をした者は、祈りは神ご自身の計画の中にあることだから、それは神に委ね、神様がそれを成就してくださることを信じて疑わないことだ』と先生は強調される。ずしんと心に響く言葉との出会いがここにある。瀬底牧師が30年以上も前に語られた言の葉の輝きに今、私たちが照らされている・・まさに神様からの恵みであり、主の導きであろう。

    「祈りの点検をしなさい」とさりげなく促されたこの朝、私たちも素直にへりくだって、「神様、あなたを信じます。いえ、信じています」と高らかに言い続けよう。ひょっとすると、天の父なる神様の声が聞こえてくるかもしれない。素晴らしきは神様の愛であり、イエス様の下さる約束だ。この世を造られ、悪の力と対峙する神様がお示しになる「わたしたちへの限りないやさしさ」。それを身に纏い、私たちも世にあって、神様のメッセージを友人へ、隣り人へ、語り伝えていこうではないか。 (溝口幸三・中会宣教主事)

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