エフェソ書1章1~14節…私はこの箇所を読むと、昔ながらの童歌「はないちもんめ」を思い出させられます。子どもの頃、私はあの遊びが好きではありませんでした。選ばれたり選ばれなかったりという遊びが、なんとも寂しく思えたからです。選ばれないというのは嫌なものですから…。今日お読みしたエフェソ書では、そんな「選び」に関しての記述がいくつも出てきます。4節と11節には、明確に「神が私たちを選んだ」という内容の記述がありますし、他の箇所にも、「神が私たちをご自身の子としてくれた」ということや「神の秘儀を教えてくれた」といったように、神様から選び出されたゆえになされたことが羅列されています。「神が〇〇をされた」「それは〇〇のためだ」といった言葉がリズムよく何度も繰り返されるのがこの箇所の特徴ともいえるでしょう。それでは、神様は私たちに何をしてくれて、それはどうしてだったのか、ひとつひとつ確認をしていきましょう。
エフェソ書1章3〜4節では、「神が私たちを祝福して選んだ」と書かれていて、その目的は「私たちが聖なる、神に受け入れられる者になるため」だと語られています。ここでは「整えられたから選ばれる」のではなくて、「選ばれたから整えられる」という神様の逆転的な価値観が示されています。神様は、効率や利益ではなく、私たち一人ひとりとの関係を重視される方なのです。5〜6節では、神様が私たちを「子にしようと前もって定めた」とあり、その理由が「神の栄光をほめたたえるため」と続きます。つまり、まだ神を知らず、整ってもいない私たちを、神は先に選び、信頼し、導いてくださっているのです。7節では、神が私たちを赦してくださったのは、私たちの努力ではなく、神の恵みによると明言されています。聖書で「罪」とは単なる悪い行いではなく、神から離れている状態を意味します。神様は、神から離れた私たちを愛と恵みで関係回復へと招いてくださったのです。8〜10節では、神がご自身の計画という「秘儀」を私たちに知らせてくださったとあります。それは時が満ちたときにすべてがキリストによってまとめられるため。大切な「秘儀」を知らせてくれるのは、神が私たちを信頼し、大きなリスクを取ってでも愛してくださっている証です。11〜12節では再び、「私たちが神の栄光をたたえるようになるために、神はあらかじめ私たちを選んだ」と繰り返されます。最初と最後で同じメッセージを置くことで、神の一方的な恵みと希望がどれほど確かなものかを強調しているのです。
冒頭で私は、「この聖書を読むと『はないちもんめ』を思い出す」と言いましたが、ここまで読んでみると、エフェソ書と「はないちもんめ」は似て非なるものであることがよくわかってきます。「はないちもんめ」は勝った側に選択権があることを喜ぶ歌、いわば競争社会における勝ち組の歌です。比較検討して自分の周りを好きに配置しコントロールしていき、そして仮に自分が選ばれたら、競争社会で自分が必要とされていることを喜ぶことができる…「はないちもんめ」の喜びとはそういう種類の喜びです。けれどもエフェソ書は、理由なく選ばれる喜びについて歌います。私たちが素晴らしい人だからではなく、私たちを受け入れたいと願われた神様が私たちを選んでくださった。私たちが褒めたたえたからではなくて、やがて主を褒めたたえるようになることを期待してくれて神様が選んでくださった。神が豊かに恵みの存在であるから選んでくださった。しかもこの喜びは、誰かとの比較や誰かを蹴落として得られるものではありません。一人も漏れも欠けもせず、すべての人が神に選ばれた存在で、すべての人の個性が尊重される喜び。それがエフェソ書の語る「理由なく選ばれることの喜び」なのです。ある聖書学者が、「聖書とは、人が神のために何かをした記録ではなく、神が人のために何をされたのかの記録である」と著していました。このエフェソ書はまさに、まだ良いことを何もしていない私たちを、神様が一方的に選び出してくれた記録です。エフェソ書は教会について豊かに教える書物です。けれども最も大切なことは、「私たちはどうして教会を大切にしたいのか」という問いではないでしょうか。エフェソ書はその答えとして、「神が深い愛と憐れみをもって私たちを選んでくださったから」と語るのです。憐れみ豊かな神様が、今日も私たちを先立って愛してくださって、私達にめぐみ教会を預けてくださっています。このことを喜びとして、1週間を歩みだしてまいりましょう。(篠﨑千穂子)