カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2025年7月20日「賛美する才能」詩編23編1~6節

    本日お読みした詩編23編は、神への全面的な信頼を表す、まさに「クリスチャンらしい」詩編です。けれども、私はこの詩編を読むとき、少し気後れしてしまいます。大切な人を失ったとき、願いが叶わなかったとき、納得できない現実が続くとき、「神さまを賛美しよう」とは素直に思うことができないからです。「主は私の羊飼い、私には乏しいことがありません」と高らかに言い切ることができない自分に、どこか寂しさを覚えるのです。皆さんは、いかがでしょうか。今日はそんな「賛美する才能が少し足りない」かもしれない私たちが、詩編23編をどう謳っていけばよいかを、ご一緒に考えてみたいと思います。

    あるとき友人に、「詩編23編って、どんな印象?」と聞いてみたら、「謎が多くて不思議な詩だよね」という答えが返ってきました。彼女が挙げた三つの謎は、「結局この詩人は今どこにいるの?」「鞭と杖は痛そうなのになんで慰めになるの?」「敵の前でごちそうを食べるなんて、どこからその余裕が?」というものでした。この三つの謎を考えることが、私たちの賛美への一歩になるかもしれません。

    まず一つ目、「詩人はどこにいるのか?」。この詩には、安らぎの「緑の野」と、苦しみの「死の陰の谷」が登場します。詩人ダビデは、王でありながら苦難の多い人生を送りました。イスラエルという国もまた、常に「死の陰の谷」を歩んできた歴史があります。それでも彼らは、「主は私の羊飼い、私には乏しいことがない」と告白します。それは、「主は私を守る王である」という信頼の宣言です。神は出エジプトの旅でも、約束を守り抜かれました。荒野を歩く民に食べ物と水を与え、「緑の野」と当時の人々が表現したカナンに導かれたのです。「今、死の陰の谷にいるかもしれない。でも今日一歩、あるいは半歩、神が導いてくださる」。詩人の信頼は、神の導きの実績に根ざしているのです。

    二つ目の謎、「鞭」と「杖」について。私たちは大なり小なり、人や神様に対して後ろ暗いところを持っていますから、「鞭」や「杖」と聞くと、罰やお仕置きのイメージを持つかもしれません。けれども本来「鞭」は外敵を追い払う道具であり、「杖」は人の歩みを支えるものです。つまりどちらも、大事な存在を守り支えるための道具であり象徴なのです。神さまは私たちを千尋の谷に突き落として、這い上がってきた者だけを子とされるようなお方ではありません。私たちが倒れないように支えてくださるお方です。だからこそ、私たちは心安らかに生きていけるのです。

    三つ目の謎、「敵の前の祝宴の余裕」について。詩人は、敵が目の前にいるのに、ごちそうを食べている。普通に考えるとこの光景は異様以外の何者でもありませんが、この異様な光景が成り立つのは「王の食卓」に招かれているからです。どんな敵よりも力ある王が守ってくださる場所だからこそ、詩人は安心して食卓につくことができるのです。またこの箇所では、「主が私の杯を満たされる」とあります。以前の訳では「杯が溢れる」とされていましたが、新しい訳では「満たされる」となりました。溢れる祝福は魅力的ですが、それは時に私たちを傲慢にし、逆に足りなければ卑屈にさせてしまうかもしれません。神がくださる祝福は、私たち一人ひとりにとって「ちょうどよい100%」の恵み。人と比べる必要のない、「あなたもOK、私もOK」と言える祝福なのです。

    この詩編の最後には、「恵みと慈しみが私を追ってくる」とあります。追ってくるものというと、敵や不安を思い浮かべがちですが、ここで私たちを追ってくるのは「神の恵みと慈しみ」です。そして神は、私たちを「神の家」に住まわせてくださる。一泊のゲストではなく、永遠に住まう者として。

    この詩は、すでにそれを理解していた詩人の告白であると同時に、苦しみの中にある人々への呼びかけでもあります。「神の約束を思い出し、今日をなんとか生き抜こう。神を賛美することで、歩き続けられるのだから」と。

    私は、自分に賛美する才能があるとは思っていません。でも、神のなさりようを信頼し、導きを思い起こすとき、私たちは「最強の余裕」を得て、「神さまは本当に善いお方だ」と賛美する者へと変えられていくのではないでしょうか。そう信じて、私たちめぐみ教会も詩編23編を共に謳う共同体でありたいと願っています。 (篠﨑千穂子)

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