昨年4月、日本中会70周年を祝う「カンバーランド・セレブレーション」が、コロナ禍での延期を経て、ようやく開催されました。そして皆さん、覚えていらっしゃるでしょうか……牧師たちが熱演した「カンバーランド長老教会 誕生物語」を。私はピカチュウを振り回しながら「起きよ! 光を放て!!」と叫ぶちょっと怖い天使を演じたのですが、あの後、いろんな方に「ドスの効いた天使、似合ってましたね」とか「“こういう天使”もアリですね」と声をかけられました。ありがたくも、ちょっと複雑な気持ちになったのは、評価のせいだけではありません。「起きよ、光を放て!」というこのセリフ、自分で言っておいてなんですが、もし自分がバーンアウトしていたら、そんなふうに言われても「無理だよ…」と泣きたくなる気がするからです。私に「光」なんてあるの? それを放っても、まわりを傷つけてしまうんじゃない?そう感じてしまうのです。けれども、神様はイザヤ書やエフェソ書を通して、「起きよ、光を放て」「光の子として歩みなさい」と語っておられます。これは、どういう意味でしょうか? どうしたら、この前向きすぎる言葉を、自分のものとして受け取れるのでしょうか?
私が「光」と聞いて思い出すのは、日本が誇るアニメキャラクター・ピカチュウです。公式HPによるとあの頬袋には電気が貯蓄されて、怒ると「ピカッ!」と放電するんだそうです。かわいいけど、あの声が出るときって実はちょっと怖い状況のようです。怖いと言えば、私は「キラキラ女子」という言葉もちょっと怖く感じています。本来の「人生全てを楽しんで内面から輝く女性」という意味を通り越して、「強い自己顕示欲と共に人にマウントをとる女性」というイメージが強いからです。そう考えるとき、見た目にまばゆい「光」は、この世界において、時に強い暴力性を帯びることがあるのだと、思わされるのです。では、聖書が語っている「光」は、どういうものでしょうか。創世記で神様が最初に言われた「光あれ」。これは、光が世界を形づくるうえで不可欠であることを示しています。また、神様が現れるときには、しばしばまばゆい光を伴います。新約聖書で「光」を表す語は「ともしび」と訳されることもあります。ともしびとは、暗闇の中で人が安全に歩くための命綱…すなわち、「光」は「ともしび」で、「ともしび」は「命綱」で、「命綱」は「神ご自身」ということになります。つまり「光」とは、私たちが道を誤らないように導いてくれる、神ご自身であるというのが、聖書の主張なのです。
さらに聖書はこう語ります。「あなたがたは、以前は闇でしたが、今は主にあって光となっています。光の子として歩みなさい。」気を付けなくてはいけないのは、聖書は私たちに「あなたたちは光そのものだ」と言っているのではない、という点です。確かに、「今は主にあって光となっています」と書かれていますが、強調されているのは 「主にあって」 という部分です。私たちは自分の力で光っているのではありません。私たちは、「主にあって」「光」と認めていただいているけれど、尚、闇の部分をたくさん抱えている事実に気づかされはしないでしょうか。不安、怒り、嫉妬、自己嫌悪、傲慢…。そしてその闇は、教会の中にもふいに現れます。そんな私たちが、もし「自分は光だ」と思いこむのだとしたら、それは傲慢であり、自己中心であり、自分を神と同じ位置に置くという意味で偶像礼拝者といっても過言ではありません。神様は、エフェソ書でこう命じます。「闇の業に加わらず、むしろそれを明るみに出しなさい。」そんな怖いこと、普通できませんよね。けれどもこの命令は、私たちの闇を光に変えることができる神様からの命令です。神様はこうおっしゃいます。「その闇を私の前に差し出しなさい。私がそれを光に変えてあげるから。」だから私たち、無理に輝こうとしなくてもいいのです。「キラキラ」する必要なんてない。主ご自身が光なのですから、私たちはその光を、やわらかく反射すればいい。「光の子」として歩むとは、そういう歩み方なのです。今日このあと、子ども祭りが開かれます。今、めぐみ教会に関わってくれている子ども達の中で、すぐに信仰を持ってくれるような子は、もしかしたらほとんどいないかもしれません。けれども、私たちがそっと指し示すともしび…「あそこに神様の光があるよ」「あの神様に信頼すれば大丈夫だよ」というメッセージが、いつか彼らに届いて神様の御許に戻ってくる日が来るのではないか…そう思うのです。たとえ私たちが、そのときを見ることができなかったとしても…。それでも私たちは神様の良き業に期待をしながら、これからも神の光を指し示す光の子として、共に歩んでいきたいと願うのです。(篠﨑千穂子)