今日の聖書はエゼキエル書37章15節から28節です。皆さんの中に、「エゼキエル書、よく知っています!」という方はいらっしゃいますか?私も学生のころ、聖書研究会で参加者の方から「エゼキエル書を読みたい」と言われ、困ったことがありました。エゼキエル書を読んでも自分と関係があることとして感じられなかったからです。ですので今日は、まずエゼキエルの人生を少し見ながら、神様がこの37章を通して今の私たちに何を語ってくださっているのか、一緒に考えたいと思います。
エゼキエルは分裂王国終わりごろの南ユダに生まれた預言者でした。けれども彼は、もともとは祭司の家に生まれました。律法によると祭司は幼いころから厳しい訓練を受け、30歳で神殿に仕えることになっていました。エゼキエルもそのつもりで訓練を積んでいたはずです。けれども20代半ばに青天の霹靂のような出来事が起こります。南ユダが大国バビロンに占領され、人々が捕囚されたのです。当時の20代は今の感覚よりも人生の中盤に近く、祭司として社会的責任をもうすぐ担うはずの時期に、人生計画やアイデンティティがすっかり分断されてしまいました。その後バビロンで、エゼキエルは神さまから預言者への召しを受けます。今の私たちなら「おめでとう!」ですが、当時のイスラエルでは、自分の国の人々に「どうして国を失ったのか」を伝えるつらい務めでした。預言者の多くは、あまり良い人生を送っていませんでした。召命を受けたエゼキエルは7日間呆然とした後、預言者としての務めを受け入れます。その後、エゼキエルはイスラエルの罪や裁き、周辺国への裁きを伝えますが、愛する妻の死やエルサレム神殿の崩壊という知らせを受けます。配偶者の死は人生のライフステージで最も大きなストレスと言われています。また、神殿の崩壊は祭司としての未来が絶たれたことを意味しました。これは神の民としての分断、未来との分断、希望との分断でもあったでしょう。今日の37章の預言は、この妻の死と神殿崩壊のあとに与えられたものでした。22節「私はその地、イスラエルの山々で彼らをひとつの国民とする。」23節「彼らは私の民となり、私は彼らの神となる。」26節「私は彼らと平和の契約を結び、これは永遠の契約となる…私はわが聖所をとこしえに彼らのただ中に置く。」これらはイスラエルが再びひとつとされ神との関係を回復し、永遠の神殿が与えられるという約束です。永遠の神殿が与えられると言うことを聞いて、分断され失われた祭司としての未来も神さまが回復してくださるというようにも聞こえたかもしれません。
本日の説教題は「THIS IS US」としました。これは海外ドラマのタイトルで、家族の分裂と回復の物語です。「他の人から見たら大したことないこと」が本人にとっては生きるか死ぬかの問題で、それが傷となり関係が分断され、やがて回復する…そんな物語です。この分裂と回復の繰り返しは私たちの人生にも似ています。エゼキエルも人生の中で何度も分断を経験しました。祭司を目指していた人生が分断されバビロンに連行され未来を分断され、バビロンの生活に慣れてきたころに預言者として召され、人との分断を経験します。そして愛する妻の死、神殿崩壊という最大の分断に直面しました。しかし、神さまは37章で彼に預言を託し、慰めと力を与えました。ただしエゼキエル自身はおそらくエルサレムに戻れなかったことも事実です。第一次帰還事業は紀元前538年、第一次捕囚は紀元前597年で、当時20代だったエゼキエルは帰還時には80代半ば。仮に彼が非常に長寿でも帰ることはほぼ不可能だったでしょう。神さまは民の回復を約束しましたが、エゼキエル自身はその回復に立ち会えませんでした。しかし、彼は「思った通りの回復ではなくても、この神を信頼する」という信仰を持ったのではないかと思います。
私たちも同じです。「他の人から見たら大したことないけれど、その人にとっては生きるか死ぬかの問題」を完全に共感することはできません。分断も起きますが、神さまは37章で「あなたに起きた分断を何度でも回復させる。あなたは何度でも私の民となり、私は何度でもあなたの神となる。」と語ってくださいます。具体的な問題は私たちの望む方法では解決しないかもしれませんが、私たちは一人ではありません。共同体の中で分断と回復のループを経験し続け、神さまの回復の希望を信頼することができます。「自分の思うとおりの回復が与えられなくても、それでも神を信頼する。THIS IS US。これが神の民の生き方。」そのように共に励まし合いながら、神さまに期待する民でありたいと願います。(篠﨑千穂子)