カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2025年11月2日「カインの末裔」創世記4章1~10節

    皆さん、好き嫌いはおありですか?私は子どものころ野菜全般を食べられませんでした。そんな私が教会でカインとアベルの話を聞いて「神様も野菜が嫌いらしい」と言って野菜炒めを断り、母に怒られたことがあります。また、「アベルの供え物はゴージャスで、カインのは貧乏くさかったから、カインの供え物は神様に受け入れられなかったんじゃない?」と言って教会学校の先生に嫌な顔をされた記憶もあります。もちろんどちらも正解ではありません。レビ記5章を読むと、供え物の内容によって神が受け入れる受け入れないかを決めているわけではないことが分かります。神は肉が好きとか野菜が嫌いという方ではないのです。見た目の豪華さも関係がありません。ではなぜカインの供え物だけが受け入れられなかったのでしょうか。

    ヘブライ人への手紙11章4節は言います。「信仰によってアベルはカインにまさるいけにえを神に献げた」。つまりカインの供え物には信仰が欠けていたと語ります。カインはそのことで顔を伏せ、怒ります。この「怒る」と訳される言葉は、怒っている当人が「怒って当然だ」と感じていることを表すものです。つまりカインは、神様に対して不当であると怒りを主張したのです。けれども、その怒りの奥には、努力しても報われない悲しみや自己否定があったのではないでしょうか。「怒り」は二次感情だと言われます。一次感情と呼ばれる不安や寂しさや絶望がたまったとき、二時感情として湧き上がってくるのだそうです。土を耕して作物を得る苦労の末に献げた供え物が、神に受け入れられなかった悲しみが怒りとなって爆発した。そんなカインに神は「罪を治めなければならない」と言われました。けれども私は、カインを簡単に責める気にはなれません。私たちも神のために仕えていて、報われない虚しさを感じることがあるように思うからです。「神様は私のことを受け入れてくださっているのだろうか」と思うことはないでしょうか。そういうときは得てして、自分の信仰を喜べなくなっているときのように思います。傷つく私たちを神様は責める方ではないけれど、だからといって、「怒っていていいよ」とは言わず、「それを治めなさい」と語られます。神様は、怒りや悲しみを放置すれば、それは大切な誰かを傷つける破壊力を持つようになると知っておられるからです。律法の本質は「神を愛し、隣人を愛せよ」ということです。カインにはその本質を選べない瞬間がありました。たった一度だったかもしれません。神の言葉を愛し守ること、弟を愛すること、神に愛されている自分を認めることができなかった。その過ちが彼自身と隣人であるアベルの人生を狂わせてしまいました。私たちは、そんなカインの末裔です。

    けれども私は「カインのようにならないようにしましょう」とは言いたくありません。なぜなら私たちは根っこのところでカインと同じだからです。神を愛せず、人を憎むこともある。たまたま殺人という行為をせずに済んだだけで、特定の人に対して「いなくなればいいのに」と思うこともある。そんな自分にがっかりして神の前に顔を伏せることが、私の日常でもあります。なりたい自分になれるなら、私たちは神を必要としないのです。けれども神は罪を犯したカインをも見捨てず、カインが誰にも殺されることがないように「しるし」を与えました。神はカインを裁かれるだけでなく、憐れみ、守られたのです。

    私たちは罪を犯したカインの末裔であり、同時に、憐れみを受けたカインの末裔でもあります。怒りや悲しみに支配される生き方から、神の真実さに支配される生き方に変えられていくのは、神が与えてくださる賜物です。だから無理に自己肯定しなくてよいし、他者を否定する必要もありません。神は重大な過ちを犯したカインにかかわり続けてくださったのです。なりたい自分になれない自分を神に明け渡すこと…そして神が愛された隣人と自分とを、正しく愛せる者へと変えてくださることを期待しましょう。カインを憐れまれた神が、今日も私たちを憐れみ、愛し、共にいてくださるのです。(篠﨑千穂子)

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