カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2026年9月20日エズラ記2章1~8節「働いて働いて働いて働いて、働いてまいります。」

    今日は、久しぶりのエズラ記講解です。まず、ここまでのエズラ記を少し振り返ってみたいと思います。

    エズラ記は、神を裏切り続けたイスラエルの民がバビロンに捕囚され、それから数十年後、帰還が許されたところから始まります。2章には、エルサレムへの帰還に応じた人々の名前が記されています。しかし、その人々は、信仰深く立派な人たちばかりではありませんでした。外国人として差別されていた人、社会の底辺に置かれていた人、帰還すれば経済的に苦しくなる人、過去の行いのために厳しい目を向けられる可能性のある人など、様々な事情や傷を抱えた人々でした。そんな人々がエルサレムに帰って、最初にしたことは何だったのでしょうか。

    エズラ記3章2節には、祭司イエシュアとその兄弟たち、そして政治的指導者ゼルバベルたちが「イスラエルの神の祭壇を築いた」と記されています。そして、焼き尽くすいけにえを献げました。つまり、まず礼拝をしたのです。なぜ、彼らは礼拝を優先したのでしょうか。3節には、「彼らはその地の民に恐れを抱いていたので……焼き尽くすいけにえを献げた」とあります。つまり、恐れていたからこそ、彼らは礼拝したのです。ここからエズラ記は、「人が最も恐れているとき、一番心がざわざわしているとき、まずしてみるとよいことは礼拝なのだ」と語っているように思います。

    また4節には、旧約の定めに従って仮庵祭を祝ったことが記されています。本来、仮庵祭は、出エジプトのときに神様が守ってくださったことや、収穫を与えてくださったことを感謝する祭りでした。しかし、このエズラ記3章の出来事を境に、仮庵祭には「バビロンから帰還できたことを感謝する」という意味も加わっていきました。これは、私たち教会の歩みにも重なるように思います。めぐみ教会にも30年余りの歴史があり、大事にしている様々な行事や発行物、礼拝の形式があります。それぞれに、これまでの教会員の方々が込めてこられた思いや、大切な意味があります。しかし、共同体の歴史は変わっていってよいのです。「神を愛して隣人を愛する」という本質に立ち返ることができるのであれば、教会の営みや行事のあり方は、その時々のメンバーに合わせて変わってよい。いえ、変わっていかなくてはいけないものもあるとエズラ記は語っています。長年、愛と熱意をもって奉仕してくださった方々のお働きには、感謝しかありません。その歩みを受け継ぎながらも、「昔と同じ方法」にとらわれるあまり、今いる誰かが無理を重ねて疲れ果てることがないように、形を優しく整えていく。それもまた、神様が喜ばれる愛の姿なのではないでしょうか。神様が一番喜ばれるのは、誰も疲れ果てることなく、誰も欠けることなく、礼拝することなのです。

    少し前、ある政治家が、「働いて働いて働いて働いて、働いてまいります。」と演説をしたことがありました。私はここで自分の政治的な立場を申し上げたいのではありません。ただ、この「働いて働いて…」という言葉が、社会や教会の中で独り歩きするなら、少し怖いなと思うのです。神様や隣人のために喜んで奉仕することは、本当に尊いことです。しかし、「頑張れば頑張っただけ偉い」「奉仕できない人には価値がない」という価値観をもし教会に持ち込んでしまうなら、それは悲しいことです。奉仕は、神様の恵みに押し出された喜びの応答であって、自分の価値を証明するための重荷ではありません。けれども私自身、頑張ることによって人から〇をつけてもらいたい、という思いがどこかにあったのだと思います。そして、自分の分を超えて働き続け、今回、長くお休みをいただくことになってしまいました。復職にあたって、信頼する先輩牧師から、「すべての人に〇をもらえないと、自分に〇をつけられない。あなたのそんな呪縛から、そろそろ解き放たれたらいいね」という言葉をいただきました。多分、忘れられない言葉になると思います。

    私たちは、働いて働いて働いて働いて、働くことを望まれているのではありません。働いて、自分の価値を証明する必要もありません。神様が望まれていることは、ただ、礼拝して礼拝して礼拝して礼拝して、礼拝することなのです。エルサレムに帰った人々は、何も整っていない中で、まず祭壇を築きました。まだ安心できる状況ではなく、立派な神殿もありませんでした。それでも、彼らはまず礼拝したのです。

    私たちも、いろいろなものや自分の心を完全に整えてから礼拝するのではなく、様々な不安を抱えたまま、そのままで、ここで神様を礼拝する。そのことを、今日、エズラ記からもう一度教えていただきたいと願います。(篠﨑千穂子)

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