カンバーランド長老キリスト教会

めぐみ教会

東京都東大和市にあるプロテスタント長老派のキリスト教会です

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  • 2026年9月27日「石塚惠司への処方箋」マタイによる福音書6章33節

    本日の聖書は、とても有名なみことばです。元気が出てくるような、いい言葉ですよね。でも、よく考えると、「『これらのもの』って、いったい何だろう?」 というツッコミが心の中に湧き上がってきます。またこのみことばを私たちは「善い行いをしていれば、欲しいものが手に入る。だから良く生きましょう」という意味で受け取りがちですが、それもちょっとおかしい気がしてきます。聖書は、神様が私たちを愛し、良くしてくださることを語りますが、「神様の愛には条件がある」とは教えていないからです。では、このみことばを、私たちはどのように読めばよいのでしょうか。

     聖書協会共同訳聖書ではこの箇所の小見出しに、「思い煩うな」と書かれています。イエス様は、空の鳥や野の花を例に挙げながら、食べるものや着るものについて思い煩わなくてよい、と語られます。当時「食べるもの」は、今よりももっと切実に「明日も生きていけるだろうか」という、命そのものに関わる問題でした。また、「着るもの」も、単なる衣服ではなく、その人がどのような立場にいるのか、人からどう扱われているのかを表すものでした。つまり「何を着ようか」という心配には、「自分は人として大切にされているだろうか」という、尊厳に関わる問題も含まれていたのです。そう考えると、イエス様が言われていることが見えてきます。「あなたが生きていくために必要なものも、あなたが人として大切にされるために必要なものも、神は知っておられる。だから、まず神の国と神の義を求めなさい。」

     では、「神の国」とは何でしょうか。それは単に「死んだら行く天国」だけのことではありません。神の国とは、私たちが今生きているこの世界と地続きの、神様の支配が行き届いた世界です。私たちはこの世界を「天国に行くまでの待合室」として生きるのではなく、この世界の中で神様と共に生き、神様の愛や正しさを少しずつ表していくことが求められています。神の国は、案外身近なところから始まります。数年前、私は教会の帰りに電車で寝てしまい、乗換駅で慌てて降りたことがありました。雨の日で荷物も多く、傘を倒してしまった私に、周りの方々が「早く早く、降りて!」と声をかけてくださった。そして電車を降りて振り返ると、窓越しに、その方々が笑顔で手を振ってくださっていました。私はそのとき、「ああ、こんなところにも神の国」と思ったのです。人間は神様に似せて造られています。神様を知らない人も、神様に似た良い性質を持っています。そんな良い性質が表される小さな優しさが積み重なるところに、神の国は現れてくるように思います。また聖書でいう「義」とは、単なる道徳的な正しさではなく、神様との良い関係を表す言葉です。神の国が少しずつ現れ、神様や隣人との関係が良くなっていく。その結果として、私たちが生きていくために必要なものや、人としての尊厳も守られていく。「まず神の国と神の義を求めなさい」とは、そういうことなのではないでしょうか。

    このマタイ6章33節は、4月に召された私たちの前牧師・石塚惠司先生の愛誦聖句の一つでした。いかにも優しい石塚先生らしいみことばだと一瞬思いましたが、説教の準備をする中で思いが少しずつ変わってきました。神の国と神の義を求めるというのは、実は結構、泥臭いことなのです。知らない人に優しくするのは、そう難しくありません。でも、毎日のように顔を合わせ、良いところも嫌なところも知っている家族、職場の人、教会の仲間に優しくすることは、本当に難しい。石塚先生も、長い教会生活の中で、「愛することが難しい」「優しくできない」という葛藤を覚えたことがあったのではないでしょうか。だからこそ先生は、「神の国と神の義を求める」というみことばを、神様から与えられた「処方箋」のようにして、何度も何度もかみしめてこられたのかもしれません。うまくいく日もあれば、失敗する日もある。それでもまた、みことばに立ち返る。私たちは今日、石塚先生という一人の人を賛美するのではなく、先生を通して示された神様ご自身を見上げたいと思います。石塚先生が伝えたかったのは、石塚惠司という人間の素晴らしさではなく、先生が信じ、愛した神様の素晴らしさでした。だから私たちも、神様に似せて造られた者として、神の国と神の義を求めて生きていきたいと願うのです。(篠﨑千穂子)

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