ヨナは神様に怒り、反抗する、まるで幼子のような預言者です。でも、この物語で一貫しているのはヨナと神様の結びつきの強さです。この親子のような信頼関係があるからこそ、ヨナは神様に反抗もし、従いもし、怒りをぶつけようともするのです。
今日はヨナのように神様としっかり結びついていた一人の女性を紹介します。テレーズという名前を聞いたことがあるでしょうか?マザー・テレサのテレサとはこのテレーズからとった名前です。テレーズは病で24歳の若さでこの世を去りますが、死後28年でカトリック教会の聖人の座を与えられます。多くの困難や苦しみからテレーズがつかんだ「小さい道」とはどんな道なのでしょうか。
テレーズの言葉から紹介します。「王様が狩に出かけて白ウサギを追っていました。数匹の犬が追いつきそうになった時、兎はもうダメだと思い、いち早く逆戻りして自分を追撃する狩人の胸の中に飛び込みました。狩人はこれほどの信頼の心に打たれ、もう白ウサギを自分から離そうとせず、誰にもそれを触らせませんでした。そして大切に養ってやりました。」「神様は私どもに対してもこのようになさるでしょう。」
彼女にとって、神様によらなければ何もできないということを悟らせてくれるものは、自分の弱さでした。小さい子どもの心を持つ者は複雑な目で神様を眺めません。ただ神様の愛だけ、それだけで生きるのです。聖書は幼子の心を持つ者には、愛しか語りません。
人は誰でも何かを行動しようと、表面的な意識にポジティブな思いを持つと、無意識の世界に、ネガティブな思いが生まれてしまうようです。しかし、人間の中には表面的意識にポジティブな思いを持っても、意識の中にネガティブな思いが生まれない人がいます。それは子どもです。例えば、「大人になったら何になりたい?」と聞いたとします。もしその子が「宇宙飛行士になる。」と答えたとしても、その子の中に「なれるんだろうか」「なれないのではないか」などというネガティブな思いは生まれません。無邪気とは邪気(ネガテイブな思い)がないのです。それに対して大人は、なまじ「分別」を身につけているため、容易にネガティブな思いが生まれてしまう。なぜなら「分別」とは文字どおり、「真実と偽り」「善と悪」さらには「成功と失敗」「達成と挫折」「勝利と敗北」というように物事を2つに分けてしまうことだからです。
私たちは何を持って、何を伝えに私たちの生活の場へと派遣されていくのでしょう。何も持たなくていいのです。むしろ持っている邪気を捨て、神様に愛されていることを受け入れ、自分を神様にお任せすればいいのです。神様は私たちのどんな弱さも欠点も上手に用いて、世界を作ってくださいます。信仰とは死んでから天国に行くために神様を信じることではありません。被造物である自分が全知全能の神様によって造られたものであること。自分の人生が愛の神様に導かれていること。そのことを自覚し、神様に全てを信頼し委ねること。覚悟を決めることです。すると、この世にあって起こること、目に映るものの解釈が変わってくるのです。それは今という現実や、未来だけでなく、過去の苦しみさえも喜びに変わるほどです。信仰は現実を、そして生き方を変えるのです。(めぐみ教会長老・中村ゆう子)