今日お読みしたイザヤ書25章には、死の悲しみとともに、盛大なパーティの様子が描かれています。けれども、死とパーティは、普通に考えれば正反対のものではないでしょうか。神様は、なぜこの二つを並べておられるのでしょうか。この祝宴は、何を祝うためのものなのでしょうか。
イザヤ書25章7節で「ベール」や「覆い」と訳されている言葉は、別の聖書の翻訳では「埋葬布」や「遺骸布」とされています。つまり、ここで描かれているのは、すでに亡くなった人々の姿であり、神様はその人々を復活させてくださるのだ…ということを、この箇所は示しています。私たちはこのことを喜びとして受け止めますが、神様を信じていない人にとってはどうなのでしょうか。イザヤ書を読み進めると、興味深いことに気づかされます。
8節には、「主は死を永遠に呑み込んでくださる」とあります。ここで「永遠」と訳されているヘブライ語は、アラム語として読むと「勝利」という意味合いで受け取られる語で、「死は勝利に呑み込まれる」という意味で訳すことができます。アラム語は当時、イスラエルの民に敵対する人々の間でも使われていました。もちろん、言葉の読み方だけですべてを説明することはできませんが、神様は死を打ち破る希望を、ご自分を信じる人たちだけに閉じ込めておられるのでしょうか。そうではありません。神様は、ご自分に敵対する人々や、まだ神様を知らない人々にも、この希望の輪に入るよう招いておられるのです。古代イスラエルでは、人は死ねば体は塵に帰り、全てはそこで終わると考えられていました。死んだ人がその後も生き続け、神様との関係を保つという考え方は、まだ明確には示されていなかったのです。その時代に死の先にある希望が語られたことは、大きな驚きだったでしょう。しかも、その希望はイスラエルの民だけでなく、敵対する人々や、神様を知らない人々にも開かれていたのです。そして、このイザヤ書の言葉は、新約聖書にも登場します。使徒パウロはコリントの信徒への手紙一15章で、「死は勝利に呑み込まれた」と語っています。イザヤ書で語られていた死を打ち破る神様の希望を、パウロはイエス・キリストの復活と結びつけて伝えているのです。恐ろしい死ではなく、神様が死に勝利してくださるのです。
ここで、「この祝宴は何を祝うためのものなのでしょうか。」の謎が解けてきます。例えば誕生日パーティは、その人が誕生日を迎えたことを喜び、快気祝いは病気を乗り越えたことを喜ぶものです。そう考えるとパーティとは、そこにいる人の存在を喜び、その喜びを分かち合うためのものと言えるでしょう。つまりイザヤ書25章の祝宴は、今、神様を知っている人も、まだ神様を知らない人も、すべての人が神様の前で存在を喜ばれていることを祝う宴なのではないでしょうか。死によって、その人の存在が無意味になるのでもなく、神様の希望から締め出されてしまうのでもありません。神様は、すべての人の存在を喜ぶ祝宴を用意してくださっているのです。
本日は召天者記念礼拝、どれほど優しい死生観を持っていても、死は怖いものです。大切な人が目の前からいなくなり、もう「ごめんね」も「ありがとう」も伝えることもできなくなって、体が塵に帰っていく現実に、私たちは向き合わなければなりません。だからこそ、悲しみの中で語られる神様の希望は、私たちにとって大きな意味を持つのです。私たちには、やがて死を超える祝宴が用意されています。今すぐではありません。けれども、キリストが再び来られるとき、完成した神の国で、すでに召された方々と再び会うことができる。私たちは、その日を待ち望んでいます。その日、私たちはお互いの存在を喜び合うのです。「あなたが、ここにいてくれてよかった」。生きている間には言えなかったかもしれません。恥ずかしくて伝えられなかったり、けんかをして伝えそびれたりしたかもしれません。それでも、その日にはもう一度、「あなたが今、私の前にいてくれて、私はとてもうれしい」と伝え、その存在を心から喜ぶことができるのです。神様は今日も、あの人とも、私たちとも共にいてくださいます。その神様を信頼しながら、いつか来る祝宴の日を待ち望み、共に歩んでいきたいと願います。(篠﨑千穂子)
