当時の人々も現代の私たちも、貧しさより豊かさ、柔和より強さを求めます。しかしイエスさまは、弟子たちに神の子としての新しい価値観を示されました。厳しい教えもありますが、愛に満ちたイエスさまが語られた言葉として受け止めたいのです。今日は「義のために迫害される人々の幸い」について考えます。
「平和を造る人々」が語られた直後に、「義のために迫害される人々」が幸いだと言われます。弟子は迫害を受ける者として召されているのです。初代教会も歴史の教会も、迫害の中で福音が広がりました。使徒言行録を見ると、弟子たちが地の果てまで証人とされたのは、いずれも迫害がきっかけでした。神の国の価値観とこの世の価値観が衝突する時、摩擦が生じ、キリスト者は少数派として苦しみを経験します。
ではどのような迫害でしょうか。「罵られ、迫害され、ありもしない悪口を浴びせられる」とあります。義に飢え渇いて生きる者は、偽りを言い広められ、評判を落とされることがあります。彼らは義に無感覚であり、キリストに従う者の生き方を煩わしく思うからです。
その迫害にどう向き合うべきか。イエスさまは「喜びなさい。大いに喜びなさい」と命じられました。復讐でも、すねることでも、優位に立って気持ちを整えることでもありません。「喜べ、喜べ」と命じられています。理由なき喜びではなく、三つの理由があります。
第一に「天には大きな報いがある」からです。地上で損をすることがあっても、私たちは天に宝を積む者として生きます。人生の究極的なゴールを天に置く者は、迫害の中でも喜ぶことができます。永遠の視点を持つ者は、目先の苦しみに圧倒されず、むしろ神の国の現実に心を向けて歩むことができます。
第二に「預言者たちも同じように迫害された」からです。迫害は救いの条件ではありませんが、キリストに真剣に従う者が受ける扱いであり、弟子であることの証しです。
第三に「それがキリストのための苦しみだから」です。使徒たちはイエスの名のために辱めを受けることを喜びました。
八つの幸いを読み終えると、これらの呼び名がすべてイエスさまご自身の姿であったことに気づきます。貧しく、悲しみ、柔和で、義に飢え渇き、憐れみ深く、平和を造り、義のために迫害されたお方です。そのイエスさまが弟子たちを同じ名で呼ばれます。イエスさまと出会い救われた者は、やがてイエスさまに似た者へと変えられ、「小さなキリスト」として生かされていく。その幸いがここにあるのです。(松本雅弘)
